2020年4月26日礼拝説教

2020年4月26日

聖書 旧約聖書 列王記下5章14節 (旧約p584) 
   新約聖書 ルカによる福音書5章12~16節   

説  教 「主イエスによる癒し」    柳谷知之

 新型コロナウィルスのために、皆が集まって礼拝をすることをやめました。様々な意見があります。前提としては教会が礼拝を止める、ということはあり得ません。牧師一人であっても、礼拝は継続している、という考え方です。緊急事態宣言の中、外出を控える状況、人との接触を8割減らす、という意識の中での決断です。他の教会がどうであるから、というのではありません。また、社会的信用の問題でもありません。家族の反対などがある、ということも決定的ではありません。ある意味、キリスト者は社会の中でマイノリティであり、社会的には不利なことがある中で信仰を持っているのではないでしょうか。主イエスは「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29,30他)と言われています。また、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命(プシュケー)を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:24)と語られています。これと似ていますが、「自分の命(プシュケー)を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命(ゾーエー)に至る」(ヨハネ12:35)と言われています。主イエスに従うことの厳しさが現われている言葉かもしれませんが、教会の使命はプシュケーよりも大切なゾーエーに至る道を示すことです。それゆえに、古代教会の時代から、教会は命の危険を賭けて礼拝を継続してきました。命の危険を脅かす事柄としては「迫害」がありました。それと現在のウィルスとは重ねられない、という考えもあるでしょう。ただ、そうしたことを考えながら、皆で集まって礼拝をするかしないか、が日本のキリシタン迫害における「踏み絵」のようになってはならない、と戒めています。どちらが信仰的か、ということではありません。それぞれが苦慮しながら決めていることだろうと考えるからです。踏み絵ということで想い起こすのが、遠藤周作の『沈黙』という作品の登場人物キチジローです。キチジローは、何度も踏み絵を踏みます(転びます)。しかし、何度も、宣教師にすがっていこうとします。初めて読んだときは、殉教する側が正しくて、転んでしまうほうは信仰が弱くだめなんだ、キチジローは情けない、なんて見方をしていましたが、それも頑なな一方的な見方かもしれません。皆が皆殉教してしまったならば、信仰は受け継がれていかないということもなりますので、なんらかの形で「残りの者」とされた人たちがいる、という考え方もあるとは思います。個人としてではなく、多様な形として教会の信仰が受け継がれていく、あるところでだめになっても、他の人たちが残っていく、という在り方があるのではないか。また、教会の歴史において、過ちを犯さなかったわけではありません。しかし、いつでも立ち帰る場が用意されていました。神に立ち帰るための言葉、聖書が与えられていました。このことが救いです。その聖書を通して、神に立ち帰るところでは、誰も自分を絶対化することはできないはずです。ですから個々人が自分と神様との関係の中で判断するしかなく、どんなにその時は良い決断をしたと思っても、神様の考えは私たちの思いとは異なるのだ、ということをわきまえなくてはなりません。ですから、常に悔い改めつつ歩むしかないところがあると考えざるを得ないのです。

 まずは、個々人が、私たちはどのようにしたら神様の栄光があらわされるか、ということを考えたいものです。また、このことを通しても伝道がなされる、ということを考えていきたいものです。その中には、自分が他人にうつさないように、ということと、教会がクラスターのもとにならないように、ということも含まれるでしょう。また、この災難を通して、わたしたちがいよいよ信仰について教会について深く考え、離れていても互いに励まし合うようになることが大切だと思います。

 さて、今日は、「重い皮膚病」の人を主イエスが癒された場面を聞きました。聖書では、しばしば神様の力によって「重い皮膚病」が癒されます。「重い皮膚病」は、汚れた病として、隔離されなければならない病でした。旧約聖書には「重い皮膚病」にかかった人がいる場合に、どのようにしたらよいか、ということで規定が設けられています。レビ記13章45節以下(旧約181頁)にありますが「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まわねばならない。」とても屈辱的な扱いをされます。そして、それほどまでに、イスラエルの共同体が「汚れ」を意識し、汚れないように、清い状態を保とうとしていたことが分かります。

 そして、主イエスの時代にも、人々は汚れないように気を付けていました。知らないうちに汚れたものに触れたかもしれないので、人々は、食事をするときには念入りに手を洗い、市場などから帰ってきたときは、全身を洗っていました(マルコ7:3節以下 新約74頁)。その様子は、今のウィルス対策よりも徹底していたといえるでしょう。重い皮膚病の患者、ユダヤ人からみた異邦人、生理中あるいは出産後の女性たち、豚などの汚れた動物に触れている者などが、皆汚れた者とされ、イスラエル共同体からは排除されていました。そして、汚れをそれほど意識する社会であったため、「汚れた者」とされた人は人間扱いをされなかったのです。反対に、律法を守って「清い」立場を維持する人々が、いわゆる「汚れた者」との間に壁をつくっていたのです。

 そのような状況が主イエスの時代にもありました。そして、主イエスがある町におられたときに、全身重い皮膚病にかかった人が主イエスのそばに来たのです。一部が重い皮膚病というのではなく、全身が重い皮膚病に冒されていた、ということからもこの人の苦しみは相当のものだったでしょう。隠そうと思っても隠すことができない、誰の目にも重い皮膚病であることが明らかに見える状態で、彼は、おそらく隔離され町の外に住んでいたと思われます。その人が主イエスの前に現われて、ひれ伏して願いました。主イエスの前に現われた時点で、この人は勇気を振り絞ったに違いありません。誰かに見られたら、すぐに町の外に追い出されるだけでなく、刑罰を受ける可能性もありました。人目を忍んで主イエスの前に現われたに違いありません。その人は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。必死の思いで主イエスの前にひれ伏したのです。すると、主イエスは、まず手を差し伸べられました。ユダヤ人たちが触れたら汚れる、と考えて、触れることはしなかった時にです。その後、癒された、ということよりも、まずその人に手を差し伸べ触れた、ことがとても大切です。そして、主イエスは「よろしい。清くなれ」と言われました。「よろしい」とは、もともとの言葉では「わたしは望む」という主イエスの意思がはっきりと表れた言葉です。ここに、主イエスのお考えが明らかになります。主イエスは律法で汚れている者とされ人間扱いされなかった人を、人として認めておられるのです。そこに主イエスの愛を、さらに神の愛を見ることができます。

 そして、その愛が壁を越えていくのです。主イエスは、社会的な汚れからも自由であった、ということ、そして、当時人々が考える汚れが絶対的ではないことを示されました。別なところで、主イエスは、人々を汚すものが、外から入ってくるものではないことを語られました。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが人を汚すのである」(マルコ7:15) と。

 人を汚すものはなんであるか。確かに感染症、新型コロナウィルスの脅威が今世界中を覆っています。「新型コロナは恐ろしい、注意してくれ」というのは正しいでしょう。一方、人間の力ではどうにもならないウィルスの脅威にさらされて、人々の不安や不条理に対する怒りが、どこに向かってよいかわからない状態なのではないでしょうか。そのウィルス検査の結果で陽性と判断されると、患者の心に病気とは別のプレッシャーがある、と聞きます。不注意や軽率な行動があったのではないか、とバッシングがあるからです。また、必死の看護にあたっている医療従事者が、タクシーの乗車拒否をされた、ということも聞きます。それぞれが自分の身を守ろうと努力している中ですので、仕方ない、という声もあるかもしれません。ウィルスに感染しても、それを公にできない社会があるとすれば、それは人間の内側から出てきた「汚れ」、すなわち人間の「罪」の問題があるといえます。

主イエスが、「重い皮膚病」を患った人に、手を差し伸べて癒された、という出来事は、そのような今の社会にも何が大切なことか、を伝えます。主イエスの「癒しの働き」は、社会から隔離された人、疎外された人を、社会に戻す働きです。

 そして、礼拝は皆が主にあって一つであることをあらわし、誰一人として疎外されていないことをあらわすものです。皆が集まって礼拝しないことにしたとしても、その中でそれぞれが孤立しないようにと願います。それは、逆に平時にあっても主にあって私たちがつながっている、ということが意識される必要があることを思い起こさせます。

 そして、答えがあるわけではありませんが、この新型コロナウィルスの様々な状況があったとしても、それらを通して、神様の栄光があらわされること、また教会に連なるものが神様に一層結びついているという意識が生まれればと願います。

 復活節の中にあります。十字架の死をこえて、主イエスを神が復活させられました。パウロは、「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すものができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」と問い、「しかし、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と述べています。(ローマ8:35-39)

 このウィルスのこともありますし、そのだけでなく、さまざまな困難があります。しかし、たとえそうであったとしても、わたしたちの今が、主の勝利によって支えられているのです。たとえ、この身は亡びたとしても、主の復活の命につながる永遠の命が約束されているのです。

 旧約聖書にもありますが、癒しは神の力です。やがては人間の業によって肉体的癒しや社会的癒しが実現していくように見えるでしょう。しかし、その業の中に神の働きを見ることができるに違いありません。また、なおも癒されない魂のうめきがあります。愛する者を失った理不尽さ、懸命に働きながらもむくわれないむなしさ、子どもたちのことなどにおいてもうめきがあります。そして、そのうめきの中で求める者に、主の癒しの御手が延ばされます。人々が、またわたしたちが分断されず、互いに主イエスの十字架すなわち苦難にあって一つとされていくのです。復活の希望をもっていくことです。そのようにして教会の礼拝がいつもそのうめきに応えるものであるようにと願います。停滞し閉塞感ただよう現代社会において、お一人お一人の平安を、そして平和をともに祈ってまいりましょう。

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