2020年5月10日礼拝説教

聖 書
旧約聖書 エゼキエル書33章11節(旧約p1350)
福  音  書 ルカによる福音書5章27~32節(新約p110)

説  教 「罪人こそ招かれている」

 わたしは、人から嫌われたいと思いませんし、できることならば誰とでも上手に付き合っていきたい、と願います。金子みすゞではありませんが「みんな違ってみんないい」という世界にほっとするところもあります。一方で、誰とでもうまくやるなんてことはそもそも無理で、自分が示されたところを行くしかないし、それで人から嫌われようとかまわない、と考える方もいらっしゃることでしょう。わたしは、決して人とのつきあいが上手ではなく、思春期の頃には学校や地域でも自分は浮いているな、という感じを持っていました。出来るだけ早く、自分が育ったこの町からでたい、この家から出たいという気持ちも持っていました。そんなとき、次のような歌に共感するところがありました。
「人と人なんてどうせ異質(ちが)うものだから、解り合うなんて必要はない。
人と人なんてどこか似てるものだから、解り合うなんて必要はない」
(生まれる星/財津和夫)
 当時の私には人と人が解りあうことにも限界があり、必ずしも解りあっていく必要はないのだ、という意識を与える言葉でした。そして、実は、この歌には、「君さえここに居ればいい」ということが加えられていて、人間がひとりぼっちでいい、というのでは決してないことも示されていました。そして、それから40年近くが過ぎて、この歌の歌詞が思い出される時、果たしてその「君さえここに居ればいい」という時の「君」ってわたしにとって誰なのだろうか、ということも考えさせられるのです。「家族」「パートナー」「友人」「同志」「恋人」と言えるところもあるでしょうが、その究極的なところは、主イエスであり、神である、というところが聖書が語るところではないか、と考えさせられます。

 詩編27編10節で詩人は「父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」と語ります。人は、人を見捨てます。しかし、主は見捨てないのだ、と告白されています。また、本日の詩編8編においても「人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう」と問う姿がありますが、宇宙の大きな存在に比べて全く小さなわたしが、神に省みられている不思議さが詠われています。世界や社会の中でも、わたしたちは自分の小ささやみじめさを感じさせられることがあるでしょう。その都度、もしかすると、自分が生きていることに何の意味があるのか、と思わざるをえないことがあるのではないでしょうか。負の出来事をただ忘れていきたいと願うところもあるでしょう。しかし、その小さすぎる「わたし」に対して、神の御手がどのように伸ばされているのか、神の御手の広さがどこまでなのか、ということを聖書から聞いていくことができるのです。

 さて、本日のルカによる福音書を見ますと、主イエスが徴税人のレビを招かれたことが示されています。このレビは徴税人でした。徴税人というのは、ローマ帝国のための税金を集める人たちでした。ユダヤの人たちは、ローマ帝国に支配されていることを快く思ってはいません。いつか救い主メシアが現れて、この国を救ってくださるに違いない、ローマ軍を追い払い、昔のダビデ王朝が復活する、と信じていたのです。ですから、ローマのために税金を集める徴税人は、ローマの手先として軽蔑されていました。また、この徴税人たちは、給与が定まっていたわけではなく、自分の裁量によって自分の取り分を決めていました。税金の金額は決まっていましたので、定められた金額以上を取り立てて、税金をローマに納めた後の残りを自分の取り分としていたのです。ですから決められた税金の金額よりもかなり多く取り立てて、自分の私腹を肥やしていた徴税人たちも現れていたのでした。彼らがそのようにして私腹を肥やせば肥やすほど、人々からは軽蔑され、また当時の社会の律法においても、汚れた者・罪人の代表的な存在となっていったのでした。

 そのような徴税人の一人であったレビが収税所の前に座っていたのでした。なぜ座っていたのかは想像するしかありません。一仕事終えて収税所に税金を納めていたのならさっさと家に帰ったことでしょう。収税所にまだ用事が残っていたのではないでしょうか。税金を上手く徴収できずに悩んでいたのではないか、などと考えてしまいます。あるいはこのまま徴税人を続けていてよいのか、考えていたのでしょうか。何れにしても、通常の姿ではなかったのではないかと思います。そのようなレビを見て、主イエスが声をかけられたのです。

「わたしに従いなさい」と。

 すると、レビはすべてを捨てて立ち上がり、主イエスに従ったのでした。

 座っていたレビが立ち上がる、それもすべてを捨てて立ち上がる、というところから、主イエスの復活の命に与(あずか)る姿が示されています。「立ち上がる」は、まさに「復活する」の意味でも用いられる言葉が使われているからです。主イエスが復活されたのは、その復活の命を私たちにも与えるためでした。その復活の命に与る、とは、「何もかも捨てる」ということが伴うのです。

パウロは、
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマの信徒への手紙6章4-5)
 キリストと共に葬られたからこそ、新しく復活するのです。

 レビにとって、捨てるべきものは何だったでしょうか。収税所の前で、手にしていた現金があったことでしょう。また、税金を集めた人を記録する帳簿もあったに違いありません。これまで自分が仕事をしてきた証、また明日からの仕事のために必要なこと、それらをすべて捨てて主イエスに従ったのでした。徴税人を辞めて従ったのだ、と直接的に考えることができますし、象徴的に、過去の実績や経験を捨てた、とも言えるでしょう。
 ところで、このレビという名前も皮肉な感じがします。イスラエルでは、レビ族という部族が祭司の家系でした。レビ自身がレビ族であったことも考えられるでしょう。また、彼の両親がイスラエルの父祖、祖先であるヤコブの子レビにあやかって名前を与えたのだとしたとしても、その名前には祭司となることあるいは神に仕えるものとなる願い、祈りが込められていたと考えられるでしょう。そうすると、今、レビが徴税人として罪人とされていることに、自分自身も情けない思いをしていたのではないでしょうか。彼が捨てたものには、そのような自分の過去やしがらみというものもあったと考えられるのです。
 ですから、レビにとって主イエスに従うことは大きな喜びでした。良いことにおいても悪いことにおいても、これまでの自分に決別をし、新たな一歩を踏み出したのです。

 そして、レビはその喜びを表して、主イエスを迎えて盛大な宴会を催したのです。そこには自分の仲間である他の徴税人たちも大勢招かれました。このところからも、レビは金持ちであったと考えられます。それだけに、不正に利を貪(むさぼ)っていたと考えられますし、罪人の代表的存在と考えられたのです。

 主イエスがそのように徴税人や罪人と食事をしていることを非難する人たちがいました。それが、ユダヤ社会において指導的立場にあったファリサイ派の人々や律法の学者たちでした。彼らは、異邦人や徴税人たちを罪人として汚れをもたらす者として避けて、食事を一緒にすることもしませんでした。彼らは、主イエスの弟子たちに尋ねたのです。
 「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」と。
 それに対する主イエスの答えが見事ではないでしょうか。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言われたのです。
 本日のエゼキエル書においてもわかるように、神は決して罪人を見放しておられるのではありません。彼らが滅びるに任せているのでもありません。むしろ、神に立ち帰ることを望まれているのです。

 そして、実は「正しい人」と思われていたファリサイ派や律法の学者たちに罪が本当になかったのか、というとそうではないのです。神の御心から離れていなかったか、というとそうではなかったことが福音書には示されています。律法を守ることを大切にし、そのことを実行していた、という点では一般の人とは異なる尊敬できる人たちだったと考えられます。しかし、そのような彼らに対して、主イエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)と言われたのです。自分たちは他の人よりも見えている、というところに罪があるのだ、自分たちが正しいとするところに罪があるのだ、と語られているのです。

 それは、人間を無理やり罪人にしてしまおう、というものではありません。少し前に水俣病に関する番組(Eテレ こころの時代「水俣 いのちの海のただなかで」)を見ました。その中で、人間が罪を認識するということが、人間らしく生きるために必要なのだ、ということではないか、と思いました。

 そこには、緒方正人さんという方が登場していました。六歳の時に網元であった父・福松さんを劇症型の水俣病で亡くされた漁師です。家族・一族の多くが水俣病に苦しみ、奇病として恐れられた頃は、誰も魚を買ってくれず、差別にもあいました。緒方さんは親の「仇(かたき)打ち」というつもりで、新日本窒素肥料株式会社(チッソ)と国や県を相手に闘いました。熊本県庁、東京のチッソ本社や環境庁また裁判所へ何百回も足を運んだ十年以上にわたる闘いでしたが、ある時、決して金銭的補償で解決することを求めているのではない、と感じたのです。さらに、自分も「生かされているのだ」と感じ、にもかかわらず、漁師として自然から奪って生きている、と考えました。そして、自然から奪っているという意味では、チッソと変わりないのではないか、チッソの中にいれば、自分も同じことをしてしまったのではないか、と感じて「チッソはわたしであった」「絶対同じことをしていないという根拠がない」という思いになったのです。その後、緒方さんは仲間たちと〈本願の会〉を創り、水俣湾の水銀にまみれたヘドロの埋め立て地の上に野仏を刻んで魂石を置くようになりました。一見すると単なる公園のようですが、そこでチッソがしてきたことを忘れず自然と共に生きることの大切さを伝えるだけでなく、水俣病で殺された「生きとし生けるもの」(人間に限らず、数え切れない魚や鳥たち)への鎮魂の意味を込めました。また、その活動にチッソの人たちも招き、組織やシステムの問題でなく、人と人との関わりを第一とするようになったのです。また、負の出来事でしかなかった水俣病事件がだんだんと意味を持ってきた、と述べています。

 その番組には、正人さんの甥でありながら年の違わない緒方正実さんという水俣病の患者の方も登場していました。そこにも、チッソを赦す、という生き方と、水俣病になってよかった、とは思わないが、そこから学んだことで自分は人間になれた、という姿が描かれていました。

 そのような番組を見ながら「生かされている」と感じることと、「罪」を意識することはどこかでつながっているのではないか、と考えさせられました。わたしたちにとって、神の前に招かれるということは、この「罪」を意識せざるをえないのです。神の前で誰もが「罪人」として等しいのです。

 ただし、そこに暗い気持ちがあるのではありません。なぜなら主イエスの十字架によってわたしたちは赦されているからです。そこに立つとき、わたしたちは、謙虚に感謝をもって生きることができます。自らの罪深さに向き合いつつも、赦されて生きることこそが、他者と共に生きる道につながるのです。

 主イエスは、そのようにして、負の出来事を抱えたわたしたちを招かれます。そして、負の出来事に意味を与え、人間としての新しい生き方へと導かれるのです。

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