2020年7月5日礼拝説教

聖書
旧約聖書
 エレミヤ書31章2,3節 (旧約p1234)
 福音書 ルカによる福音書6章27~36節 (新約p113)
説 教 「あなたは誰ですか」

愛敵の教え
「敵を愛し、憎む者に親切にしなさい」

  いわゆる「愛敵の教え」として知られています。マタイによる福音書の山上の説教(山上の垂訓)においても有名な聖書の言葉です。マタイによる福音書の「愛敵の教え」については、昨年の教会の修養会においても、共に読み学びました。その時は、このことを努力目標である、という考える方もいらっしゃいました。また、「敵を愛する」ということを主イエスはできたが、私たち人間にはとてもできないことである、という意見もありました。そもそも愛することができるのならば「敵」ではない、と言えるのではないか、と考える人もいるでしょう。「敵を愛すること」が「できるかできないか」ということを問題としてしまいがちですが、本日は「できるできない」を問題とするのではなく、なぜこのような戒めがあるのだろうか、というところからご一緒に考えてみたいと思います。

敵とは誰か

まず今日の聖書において「敵」とされる人々はどのような人々であったでしょうか。
主イエスがここで語る「敵」とは、主に自分たちに危害を加える人たち、侮辱する人たちを想定しています。しかし、当時ユダヤの人々が敵対していた人々は、自分たちに危害を加える人たちだけではありませんでした。
当時の律法主義的な社会の中で、「隣人を愛しなさい」という教えに対して、「隣人」について定義されていました。社会的リーダーでもあった祭司や律法学者、ファリサイ派の人々は、「隣人とは同胞の者である」としました。さらに、「律法を守っている人々である」としてきました。同胞の者であっても徴税人や重い皮膚病の患者たちを汚れている者たちとして、自分たちの交わりの中にいれることはなかったのです。また、ユダヤ人たちはローマ帝国に支配されていましたので、異邦人の中でもローマ人は敵対する人々でした。また、ヤハウェを神としながらもエルサレムではなくゲリジム山を聖地としていたサマリア人を敵視していました。なぜ、こうした人々を敵視してきたのか、ということについて少し考えていきたいと思います。
まずひとつの社会において「敵」とされるのは、その「社会」の秩序を脅かす存在です。そして、秩序を脅かすだけでなく、命を脅かす存在であればなおさら敵としての脅威を増すことになります。
確かに、ローマ帝国の兵士や役人たちは、ユダヤ人たちの命を脅かす存在となっていたでしょう。そのような存在がいまの私たちの社会にいれば「敵」とみなすことができるでしょう。一方、徴税人や汚れを持った人々、サマリア人といった人々を敵視することにどのような意味があったのでしょうか。
そこにも、自分たちの社会を平安に保つ、という心理が働いていたと言えます。当時のユダヤ社会は、神の律法を守り抜くということを徹底していました。紀元前586年にユダ王国が滅びたことは、神の律法を守らなかったから、異民族の神々に従った結果である、と考えて、徹底的に律法を守ろうとしていたのです。サマリア人たちは、その前にアッシリアに征服されていた地域の人たちで、モーセ五書を信じていましたが、異民族と混血していましたので、純粋ではないということからユダヤ人たちは蔑み差別していました。それは、彼らと付き合えば自分たちの世界が純潔を守ることができない、という恐れから生まれたものです。

壁を壊す
 しかし、主イエスはそのような人と人との間の憎しみの壁、交わりを妨げる壁を壊す方向を示されたのです。それは、一人の主なる神のもとに、誰もが等しい存在だからです。ユダヤ人も異邦人もなく、男も女もありません。「いと高き方は、恩を知らない悪人にも、情け深いから」(35節)です。
神の愛を知ること、自分自身が愛されていることを知ること、そこにこの壁を壊していく、壁を越えていくヒントがあるのではないかと思います。
自分が愛されていることを知ったからといって、すぐにでも報いを望まないで人に与えたりできるだろうか、と思います。たとえ報いを望まないで与えたりしたとしても、その人が最終的に自分のことを大切にしてくれない、ということがあると、人は躓きます。せっかくしてあげたのに、裏切られた、などと思ってしまうものです。親切である人ほど、そのような罪に陥りやすいものです。人の苦悩の一つは、そのように報われないという思いがあるのです。
一方、なぜ人は敵や味方という壁を築いてしまうのでしょう。それは、自分と異質なものを発見するだけでなく、その異質なものが自分の存在を脅かすものであるからです。自分の存在というのは、生命を脅かすことだけでなく、自尊心や立場が脅かされたりすることも含めて考えられます。これまで自分がよりどころにしてきた考えが壊される時、人は怯えたり、受容できなくなってしまいます。
自尊心や立場というときに、誰かの上に立つということを無意識にも感じていることもあると思います。子どもはいつも親に従わなくてはならない、ということや、女は男に従わなければならない、とか。年下のものは、年上の人にいつも従うことが大切である、とか。生徒は先生にいつも従わなくてはならない、とか。日本人は世界のトップにいなければならない、とか。
はっきり言うとそれは違うと誰もが思うことでしょうが、自分自身の中にもそのような差別的な考えがあることを発見することがあります。

しかし、そのように自分の中に差別意識があると分かるときこそ人は変わりうるのです。
また、「立場」が、壁を築き、人を人として見ることができなくなってしまいます。敵と味方という意識の中には、そのような自意識があるのです。

あなたは何者か~立場、属性、意識から~
さて、「立場」ということをもう少し踏み込んで考えると、私たちは何らかの属性を持っています。日本社会に住む者。日本国籍を持つ者。男性、女性、○○家の人間・・・・。所属、職業、出身地…。
実際、あなたは誰ですか、と質問したらなんと答えるでしょう。
「わたしは○○県で育ち、○○学校を出て、○○で働いています。現在、どこどこに住んでいます。」などと私が答えたとしても、それが「私」だということになるでしょうか。
あるいは「趣味は○○で、○○することが好きです」といったところで、それが自分だということになるのでしょうか。
わたしが病気になる、年をとって今の仕事ができなくなったとしたら、それはもう自分でなくなってしまうのでしょうか。
また、自分は自分の意識である、という人もいます。
デカルトという人は「われ思うゆえにわれ在り」と述べましたが、認識するかどうかで存在するかどうかが自分の意識では語ることができても、人に対して「わたしはあの人を認識していないからあの人は存在していない」とすることはできません。また、意識がなくなったら、その人の存在はなくなるのでしょうか。

先々週の水曜日に私の母は病院に入院して、金曜日の夕方に意識がなくなりました。その時は弟の雄介がその時にそばについてました。金曜日の夜に彼から「母があぶないかもしれない」と電話がありました。しかし、土曜日に妹が行くと、母は「わたしは生きています」と大声を出していたのです。そして「お腹が空いた」といって用意されていたおかゆとゼリーを完食しました。妹は「昨日雄介が来てたのわかった?」と聞くと、「わかったわよ」と答えた、とのことです。
結局は、翌日曜日の早朝に天に召されたのですが、そのことを聞きながら、移り変わりゆくものや、見えるものを根拠に自分自身であるということは言えないのだと考えさせられています。

わたしたちは何者か~いと高き方の子、恵みによって生きる者~
そして、わたしたちが信じる神は、その神であるという「立場」にこだわらず、人としてこの地上を生きた方です。最後は十字架につけられました。「キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられ」(フィリピ2:6,7、聖書協会共同訳)たのです。

その主イエス・キリストによって、わたしたちは自分の意識やこの世での立場や属性によらず、いと高き方の子(35節)とされるのです。他の人と違う存在として名を呼ばれています。
それは、わたしたちが主イエスを信じ、主に従うものであるからではありません。33節から35節で、主イエスは、「自分によくしてくれた人に善いことをしたところで、どんな恵みがあるだろうか」と言われます。「何も当てにしないで貸しなさい」と言われます。「罪人でさえ同じことをしているのだから」というのです。

ここを何度か読みながら、最初はこの「罪人」が誰か別の人、自分とは違う人として読んでいました。しかし、自分のことを振り返ります。そして、人からいろいろと恵みをいただいたことを思い出すのです。かつて、社会人でいたとき、コンビニの駐車場に車を停めた時、脱輪したことがありました。暗い中で駐車場の端に段差があるのに気づかなかったのです。店の人に言うと「よくあるんですよ」と言って他の誰かに助けを求めました。そうしているとある人が車でやってきて、ロープで私の車を引っ張り上げてくれたのです。そのロープはその時にちぎれてしまったのですが、一緒に手伝ってくれた人が「彼は知り合い?」っていうのですが、全く知らない人でした。その人は、作業が終わるとすぐに立ち去っていきました。今でも名前も知らないままです。
同じように、わたしは数多くの人に助けられているのだなぁ、と感じます。その助けられてきたことに必ずしも報いていないことを感じます。
一方、私はある人にお金を貸していました。もう返ってこないものですが、時々「ああ、あの時のお金が戻ってくればなぁ」なんて思い起こしていることがあります。もう昔のことで、いい加減忘れていいはずなのに、と思いつつ。どこかで、報いを求めているせいでしょう。人から受けた恩は忘れ、人に貸したことは覚えている。そういうのって何かいやらしいものです。「天に宝を積む」ということでなんとかやっているところです。
今日の聖書を読みながら、聖書で語られている世界は打算の世界ではないのだ、と改めて思いました。計算で成り立つ世界とは違う世界を主イエスは示されています。恵みによってのみわたしたちが神の子とされている、その深さを感じるとき、わたしたちは理不尽な出来事に対して、感情的な憎しみや不安を超えていくことができるのではないでしょうか。そして、わたしたちは神の前に立つとき、自分がひとかどの者であることはなく、何一つ自分のものといえるものはなかったことを思い起こします。
ですから「敵を愛しなさい」「何も当てにせずに貸しなさい」は「ねばならない」ことではありません。
それは、計算づくではない世界への招きの言葉です。
この世界は、結局はGive & Take で成り立っています。与えればお返しがあり、与えられれば返さなければならない、また、やられたらやり返す、という世界です。貧しいのは自分が悪いからだ、という世界です。しかし、そのような世界とは異なる全くの恵みによって成り立っている神の国にわたしたちは招かれているのです。わたしたちが神の恵みによって生きている者なのです。
本日、松本教会が創立記念礼拝を迎えています。神の国のために、自分自身の報いを望まず、異国の地に来た人々が大勢いることを覚えます。耶蘇と言われ蔑まれ、悪口を受けた先人たちも数多くいたことでしょう。生きているときに報われなかった方々も大勢いるはずです。しかし、報いは神のもとにあります。わたしたちもそのことを信じる群れであり、神の慈しみ・憐みを伝える者とされているのです。

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