2020年7月26日礼拝説教

旧約聖書 エレミヤ書38章6節 (旧約p1249)
福音書  ルカによる福音書6章46~49節 (新約p114)
説 教 「深く掘り下げると」

土台の大切さ

家を建てることにおいて、土台が大事である、ということは常識です。最近は、シロアリ対策や地震対策もあり、地面の上を全部コンクリートで覆うような土台の作り方が一般的になっているようです。昔のように縁側の下から、床下に潜り込むなどということはできない家がほとんどではないでしょうか。また、家を建てる際に、杭を打つその基礎となる土の状態がしっかりしているかどうか、地盤調査のために、現在はボーリング調査といって地中深く掘って、その地層の強度を調べたりしています。

以前、あるマンションが建ててから数年たって傾いていることが分かったことがありました。マンションを支える基礎の杭の一部がマンションを支える固い地盤まで達していないことや、虚偽のデータに基づいた工事であったことがその後の調査で明らかになりました。

そのように家や建物については、土台が大切である、ということは誰でも知っていることです。

一方、人生についてはいかがでしょうか。

その土台、根拠としていくことが何か、ということは、案外、人によって考え方が違うのです。

松本教会は、鈴蘭幼稚園と関係があり、幼児教育について考えさせられることがあります。幼児のうちから、英才教育、早期教育が必要、という考え方もありますが、鈴蘭幼稚園では、その前にまず、人間として、無条件の親の愛、他者の愛を精一杯受ける事、自分でしたいことに没頭し集中する経験を持つことが土台ではないか、と考えています。そこから、他者との関わりや自分の自由と同時に他の人の自由を大切にすることが身についていく、と考えるからです。一方、そこでなぜ、キリスト教教育なのか、というと、親や他者の愛といっても、人間の愛は不完全だからです。最後は、絶対者すなわち神様によって一人一人が愛されている、ことが、自分を受け入れ、他者を受け入れる根拠、土台となるからです。

ですから、人生における土台は「愛の関係」であり、主イエス・キリストです。主イエスによって、わたしたちは、たとえどのような境遇にあっても、神の愛から引き離されることはなく、困難や苦しみにあっても、平安のうちに生きる事ができるのです。パウロも「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(二コリント2:8-9)と語りました。文語訳「為(せん)ん方(かた)つくれども、希望を失わず」(あるいは「詮方(せんかた)尽くれども、望みを失わず」)で覚えている方もいらっしゃることでしょう。

そのパウロが語ります。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(一コリント3:11) 本日の招きの言葉では、「あなたがたは、…使徒や預言者という土台の上に建てられた」と語られていますが、続く箇所で「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身」とあります。主イエスご自身が、人生の土台なのです。

土台は、主イエスの言葉を行うこと

一方、本日のルカによる福音書では、主イエスの言葉を聞いて行うことが土台となる、と語ります。これとほぼ同じようなたとえが、マタイによる福音書7章にあります。マタイによる福音書のほうには次のようにあります。

24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」   

共通することは、主イエスの言葉を聞いて行うことが、人生の土台である、生活の土台である、という点です。そして、岩の上に家をしっかり建てていないと、すなわち、土台をしっかり据えていないと、何かあった時にひどい倒れ方をしてしまうのです。

一方、ルカによる福音書では、まず「『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と主イエスは呼びかけます。

「主よ、主よ」と慕いながら、また頼りながら、なぜわたしの言うことを行わないのか、と始まります。主イエスの弟子だからといって、主イエスの言葉を行わない弟子がいる、ということになります。

一方、わたしたちはこう考えるのではないでしょうか。

主イエスが言われることは、もっともなことも多いけれど、人間がなかなかできないことを言われている、それを行えとは、難しいな。キリスト教は、結局、聖人のようにならなければだめだと言っているのか、と。

例えば、6章には、「敵を愛しなさい」と言われます。具体的に、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。…求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」と言われます。主イエスにはできるけれど、わたしたちには難しい、ハードルが高いこと、と思えることです。

主イエスは、わたしたちに無理難題を押し付けているのでしょうか。

それとも、主イエスが語られていることは、努力目標であり、少しでも行おうとすることが大切だ、ということでしょうか。

主イエスの「言葉」をどう理解するのか、「行う」ということをどう考えるのか、というところに主イエスの言おうとすることを理解するヒントがあると考えました。

主イエスの「言葉」とは、主イエスが語られたことだけを指し示すのではありません。主イエスによる出来事です。主イエスがどのように生きてこられたのか、主イエスの生涯すべてを示します。

また、ここで「行う」というのは、ただ行動する、という意味だけでなく、「完成させる」「実現する」という意味があります。

すなわち、「主イエスの言葉を行う」とは、「主イエスの生涯をかけて伝えられたことを実現する」ことです。

主イエスの生涯によって示されること~神の国の実現

 主イエスは、その宣教のはじめに「神の国は近づいた」と言われました。また、あれこれ思い煩わず「何よりも、神の国とその義を求めなさい」と言われました。そして、主イエスは、2000年前のユダヤで、神の国を示すために、当時の律法主義と闘われました。律法主義は現在でいうところの自己責任論であり、勧善懲悪、因果応報という考え方に通じます。一方、「神の国」は、そのような考え方と正反対のところにある「恵みによって生きる世界」です。

主イエスは、その十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と言われました。まさしく「敵を愛する愛」を示されました。

先週、ご紹介した三澤洋史さんという指揮者は、ずっと教会に通いながら洗礼を受けるにいたりませんでした。それは、「敵を愛する」なんて絶対できないし、それができなければならないのならクリスチャンにはなれない、と足踏みをしていたのです。しかし、あるとき、わたしにはできないけれど、主イエスは敵を愛される方だ、と気づかされ、自分ができるかどうかではなく、そう言われる方がいるのだ、その方に信頼しよう、と決めたのです。そして、クリスチャンになりました。

わたしにはできないけれど、主イエスはそれを実現してくださる方だ、主の赦しの言葉に信頼して、自分の人生を委ねる事、そこに人生の要があるのです。

そのときこそ、パウロが語るように「為(せん)ん方(かた)つくれども、希望を失わず」と言えるのです。

恵みによって生きる事、恵みを人生の根拠にすることが、神の国の実現に向かうのです。

深く掘り下げる

 ところが、わたしたちは他者との比較や自分の理想との比較によって、神によって恵まれたことなどない、と思ってしまうこともあるでしょう。「恵まれた人」を見れば、わたしとは関係のない人生と感じます。しかし、「恵み」は、自分の人生と関係のないところに見出すものではありません。今日のルカによる福音書で主イエスは語られます。神の国の実現に向かうものは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」と。

地面を深く掘り下げることによって、神の恵みに気づかされるのです。

なによりも、私たちには命が与えられています。様々な人との出会いが与えられています。順風満帆とは言えませんが、たとえ逆境においても、振り返った時に、ああこのことは、自分の人生には必要なことだった、と気づかされるならば、すべてが恵みとなります。すなわち自分の人生を深いところから理解すると、生かされていることが分かり、わたしたちが一人だけで、自分の力だけで生きてきてはいないことを悟ることができます。

子どもの教育にとって愛が大切である、と言われますが、愛はすべての人に共通することです。誰もが、他人との比較で自分の人生を決めるものではありません。人を生かす愛は、条件つきではありません。条件付きで、こうなれば幸せだ、とか、こうなるべきだ、という人生ではないはずです。

一人一人が生かされている意味と価値が、今の自分にはわからなくても、神は必ずそこに意味を与えていてくださるのです。神のみが人の人生、自分の人生を意味づけることができます。神によって祝福された人生を信じる事、そこにわたしたちの土台があります。

最後に、ニューヨークにある物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に掲げられている「病者の祈り」のタイトルで知られている詩を紹介します。

病者の祈り …苦難にある者たちの告白 

(A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED)

大事を成しとげられる強さを与えてほしいと神に求めたのに、

慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、

より良き事ができるようにと病弱を与えられた。

幸せに過ごせるようにと資産を求めたのに、

賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、

神の御手を感じることができるようにと弱さを授かった。

人生を楽しく過ごせるあらゆるものを求めたのに、

どんなささいなことにも喜べる人生を授かった。

求めたものは何一つとして与えられなかったが、

願いはすべて聞き届けられた。

口で祈る私自身の願いとは全く別に、

心の中の祈りの言葉は御胸に届き叶えられた。

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。

たとえ自分の思いとは異なっているとしても、神の祝福を受け取ることができる人は幸いです。その幸いを得る者が、ゆるぎない人生を歩むことができるのです。

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