2020年10月11日 神学校日  礼拝説教

聖書(新共同訳) 出エジプト記 35:20、21節 (旧約聖書153ページ)

マルコによる福音書 1:30、31節 (新約聖書62ページ)

説教題  「もてなし」 横内美子 神学生

はじめに

今日は、皆さまと共に、主日礼拝を守れることに感謝します。いつも神学校をお支え頂きありがとうございます。コロナウイルス感染に関し、自粛・移動の制限などある中、松本教会に伺うことができて一安心しました。わたしは、13年前の2007年のクリスマスに松本教会で受洗させて頂きました。そして、松本教会は家族3人を見送った所でもあります。今は神奈川県の茅ヶ崎平和教会に通っています。

1.多くの病人をいやす(マルコによる福音書1章30節)

今日の聖書箇所の小見出しは、“多くの病人をいやす”とあります。この章の前は“汚れた霊につかれた男をいやす”また、後の章では、“重い皮膚病を患っている人をいやす”とあります。当時の町や村には悪霊につかれたり、病にかかり苦しんでいる人々がとても多いことが分かります。イエスさまはその中に入って行かれました。

30節で「人々は、早速、彼女のことをイエスに話した」とあります。人びとが主語です。イエスさまを囲んで、「どうにかしてほしい」と願っている人びとの姿が目に浮かびます。人びとの願いは祈りであり信仰です。こども讃美歌に♪おいでくださいイエスさま♪とありますが、人びとがイエスさまを取り囲んで真ん中に招き入れたところに、わたしは信仰の芽吹き、柔らかさを感じます。

真ん中に招くということは例えば、復活したイエスさまは真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われました(マタイ福音書24章36節、ヨハネ福音書20章19節 参照)。真ん中に立つことはからだをもって示す平和の行為です。平和は安心して暮らすこと、日々の生活で安全が守られることです。マルコ福音書30節の人びとは「安かれ」「安かれ」と願い、信仰を表しました。人びとの信仰が先にあり、主イエスは病をいやされました(5章34節、10章52節 参照)。

わたしは、思い出すことがあります。連れ合いが難病になり、以前友人から薦められていた医師の名刺を頼りに尋ねたことがありました。わたしは、医師による余りにも深刻な話に頭が真っ白になり自分の家の電話番号を、思い出すことができませんでした。しかし知人、友人たちが寄り添ってくれました。なかでも教会に通っていた友人たちの信仰によってわたしたち家族は教会に導かれました。わたしと同じように親切な導き手により、教会を知った方がおられると思います。

福音書に記されている出来事は歴史的に古代の、文化的に遠く離れた世界から生まれたことなのに、今ここでも同じことがおこります。

イエスさまはペトロのしゅうとめのそばに行き、手を取って起こされました(31節)。しゅうとめは熱が去り、一同をもてなしました。

それにつけても、病人が起き上がり、もてなすことができるようになるには十分な休養が必要な可能性がありますが、ここの文脈ではあっという間の出来事です。

マルコはその事柄の重要さから、このように簡潔に表します。

ここの文脈はゆっくり見ていきましょう。

マルコは、主イエスの活動した場所を、町や地方の名前を別にすれば、人里離れた場所、向こう岸、山、荒れ野、会堂と表します。マルコは場所を重要視せずに、人々の集まり・共同体を描きました。マルコはイエスさまがさまざまな弱さを持つ人びとをいやした多くの出来事を伝えています。でも、同時に忘れてならないのは、イエスさまがその共同体のひとりひとりを共同体のふさわしい位置に復帰させたということです。

主イエスがされた「いやし」は、何か部分的な修復を表すのではありません。また、欠けてあるものを修復することでもありません。ひとりの人の全体を括って回復することです。これが主イエスのいやしです。しゅうとめは、元の生活、共同体に参加します。そして、もてなしました。

2.彼女は一同をもてなした。(マルコによる福音書1章31節)

今日の旧約聖書で、人々は、幕屋造りのためにそれぞれが捧げものを携えてきました。幕屋造りの準備には「作業」も含めてさまざまな「奉仕」「職務」があることがわかります。「作業」(出エジ35:21)とあるのは、原語をたどると、「組み立て」、「工事」、「奉仕」、「職務」と訳されますが、もともとは「仕える」「僕となる」(アーバッド)という言葉に由来します。一方、ペトロのしゅうとめが「もてなした」とありますが、この言葉は「仕える」(聖書協会共同訳)、「奉仕する」「世話をする」という意味を持っています。

それは「ディアコニア」(ギリシア語)という言葉です。

しゅうとめは、一同をもてなしました。シモンが網を捨ててイエスさまに従ったように他の一切を顧みず、仕え(聖書協会共同訳)、奉仕したのです。

わたしは以前、同じ境遇で入院した人とばったり会った時の会話を、思い出しました。「退院をした後、仕事の準備や買い物にやっと行ったよね。でもうれしくて食事の用意をしたわ」。「お互い無理しないで、またね」と別れました。わたしは、仕事、買い物をすること、食事の用意も含めて、シモンのしゅうとめがそうであったように、ディアコニアであることに気付きました。初期キリスト教の福音宣教の母体はしゅうとめの出来事にあるような古代社会にあります。わたしたちは、そこに人間の変わらない温かさと新しい息吹を感じます。

主イエスは、多くの病人をいやし、仕え(ディアコニア)た方です。

それはイエスさまの十字架の出来事を通して明確になりました。イエスさまは、人々のために僕(仕える者)となられました(フィリピ2:7)。イエスさまは神の意思により人びとのために苦しまれたのです。わたしたちはこの方を主と呼びます。主は「さようなら」ではなく「またね」という方です。「また、会おう。」と、確かな未来を約束します。

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