2020年10月18日礼拝説教

聖 書

旧約聖書 箴言13章17節  (旧約p1007)

福音書 ルカによる福音書9章1~6節 (新約p121)

説 教 「福音を告げ知らせる」柳谷知之牧師

弟子たちを派遣する

主イエスが、弟子たちを呼び集め、福音宣教のために派遣されます。その場面は、もしかすると多くの方々にとって、自分には関係ないと思われるところかもしれません。しかし、宣教は、牧師や伝道師のようにいわゆる伝道者として遣わされた人だけのものではありません。信徒の一人一人は、言葉によってだけでなく、行いによっても、さらにその存在によっても、福音を告げ知らせる存在です。私たちの礼拝では、招きからはじまり、派遣という方向を持っていますが、皆様一人一人がこの世に派遣されているのです。今週は、日本基督教団では、信徒伝道週間と定められています。

ですから、主イエスが十二弟子を派遣されたということが、わたしたちにも当てはまることになります。ですから、弟子たちというところを「わたしたち」と読んでいくことができます。

 

主イエスが与えられる力と権能

主イエスは、かつて十二弟子たちに与えられたのと同じように、わたしたちにもあらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を与えられます。

果たして、わたしたちはそのような力や権能を授かっているのだろうか、と疑問に思うかもしれません。

悪霊に対して

しかし、主イエスにつながり、十字架の道を歩まれた主イエスの言葉に信頼することで、既に悪霊に打ち勝つ力と権能が与えられています。恵みの言葉に信頼するところで、聖霊が働く場ができます。

悪霊は、神から私たちを引き離す力であり、わたしたちの生きる力を奪うものです。

先日、奥田知志さんというバプテスト連盟の東八幡キリスト教会の牧師であり、抱撲館(ほうぼくかん)と呼ぶ生活困窮者の支援施設の責任者の方が、次のように述べていました。

―首相は、目指す社会像は、自助、共助、公助そして絆だといい、まずは自分でやってみること、と述べたが、現在「まずは自分で」ということが協調され、生活困窮者に対するバッシングが常態化している。自立が求められるが、「自立」とは、他人に頼らず生きていくことではなく「助けて」と言えることだ。「自立」とは「健全な依存」であり、相互性がある。「他人に迷惑をかけてはならない」「自己責任」という空気は、分断を招き「助けて」と言えない社会を生み出している。―

この考えは、聖書に基づきます。聖書は、人間が独りで生きられない存在、独りでは生きてはいけない存在として語ります。その人間性を取り戻すこと、神によって生かされていることを自覚するところに、主イエスが語られた神の国があるのです。神の国は「共に生きる世界」です。それは、神と人と共に生きる世界です。

現代の悪霊の一つの姿は「自己責任」や「他人に迷惑をかけない」という「空気」です。

その空気が、恵みによって生かされている、という世界を否定するものとなっています。

病気に対して

では、病気に対するいやす力はどうでしょうか。

神を信じたから、病気にならない、ということではありません。

多くの人が、最後は病を得て、この地上の生涯を終えていかれます。

家族の中で、病気によって亡くなった方もいることでしょう。

わたしも、父と母を失いましたが、それはガンと肺炎でした。

病気は確かに人の生きる力を奪うものです。肉体的命を奪うだけでなく、病気になると、人は、「自分は生きていてよいのか」「迷惑をかけるだけでないか」と思ってしまうことがあります。そのように、肉体だけでなく魂をもむしばむ病があります。それは、最終的に絶望という形で現れます。

しかし、その絶望の病をいやす力が主イエスによって与えられています。十字架の主イエスは、死をこえた命を示されているからです。その主イエスとの交わり、神との交わりは、病を得てもその先に生きる力を与えます。

ですから、わたしたちにはすでに悪霊や病気に対してもいやす力と権能は与えられているのです。

ただ、試練や困難がそれを忘れさせてしまうのです。様々な圧力、空気に負けてしまいます。自分だけで生きなければいけない、と思い込まされます。

ですから、主イエスは共に生きることを思い起こさせようとされます。

何一つ持たないからこそ、福音を告げるものとなる

 弟子たちは、主イエスから派遣されるとき、何一つ持って行ってはならない、と命じられます。「杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。下着も二枚は持っていくな」と命じられます。着の身着のまま、身一つで行け、と言われるのです。

伝道者として、実際にこう言われて、派遣されたら、ものすごく困るだろうな、と思います。しかし、ここに福音ということについて、また福音を伝えるとはどういうことか、について考えさせられることがあるのです。

 すなわち、旅に出たら人に頼らざるを得ません。食べ物もなにもありませんし、お金だって持っていません。どこかの家に行って、すみません、食べ物を分けてくれませんか、と願うしかないでしょう。

そのようにして、自分の弱さをさらけ出し、自分以外の者を頼みとするところに、宣教する者としての基本姿勢があるのです。その姿勢は、共に生きることです。

そして、その宣教する者とは、わたしたちです。

わたしたちも絶対他者である神を頼みとし、祝福を告げる者とされています。

わたしたちがまず神に絶対的に信頼をおく、という在り方において、神の働きは伝えられるのです。

そこに、主イエスに派遣された弟子たちが、村々をめぐり、至る所で福音を告げ知らせ、病をいやしたように、福音を告げ知らせ、病をいやす力が与えられています。

私たち自身が神のもの~希望に向かう

また、わたしたちが持っているものは、深く考えると、神が与えてくださったものです。自分の努力によって得たものだ、という思いがあっても、それを得ることができる能力、努力する力や環境など、自分の努力によって得たものというよりも、はじめから備わっていたものだったり、後から与えられたものではなかったでしょうか。すなわち、天より賜ったとしかいいようのないものがあると思います。それは、恵みとしかいいようのないことなのです。

ですから、わたしたちは、何一つ持たないものとして、神様の前に立たされます。そして、与えられたことに意味を見出していくことができます。与えられていることに恵みを見出していくことができるのです。

わたしたちは、自分自身に与えられた恵みを神の国のために生かすことができたら、と願います。タラントンのたとえ(マタイ25:14以下)のように、与えられたタラントンを増やすことができるのか、すなわち、どのように神様のために用いられるのか、を問うことになります。あるいは「不正な管理人」(ルカ16:1以下)のように、与えられた立場や賜物を最大限活用して、永遠の友を作ることができるか、問われるのです。

わたしたちが与えられた恵みを豊かに生かすこと、通常なら恵みとは思えないことの中にも恵みを発見すること、それが福音宣教です。

宣教のために豊かに用いられたパウロは語ります。

「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(第二コリント6:8)

私たちを貧しくするのも、豊かにするのも神です。その神を信頼するならば、次の方向に向かうことになります。神さまが自分に与えられていることを通して、神さまが何をわたしに期待されているのか、何をなそうとされるのか、祈り求めるようになります。「祈ることは絶望しないこと、死に対して異議申し立てをすること、自分がどこに向かうのかはっきりと意識すること」(エリ・ヴィーゼル)です。

私たち自身が、主イエスを通して、神のものとされています。神のものであるかぎりは、決して無意味に世を生きることはありません。最後を楽観することができます。その楽観は、現実逃避ではなく、現実への戦いの決意(岩崎航)となるのです。

わたしたちには、たとえ、すべてを失ったとしても、すべてを与えてくださる神が共にいてくださるからです。

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