聖 書
旧約聖書 イザヤ書11章6節 (旧約p1078) 福音書 ルカによる福音書9章46~48節 (新約p124)
説 教 「子どもに導かれる」 柳谷知之
偉くなりたい、という気持ちの中にあるもの
主イエスの2回目の受難予告の直後に、弟子たちの間で、自分たちのうちで誰が偉いか、ということが議論になりました。もともとの言葉で見ていくと、誰が一番大きいか、ということです。偉いか、というだけでなく、影響力が大きい、とか存在が大きい、とかそういうことを論じ合っていたのです。これと似たようなことを、主イエスはルカによる福音書では、22章24節以下でも語られています。この時も弟子たちは、誰が自分たちの中で偉いか、で議論していたのですが、それは、主イエスと共に最後の晩餐をした後でした。いよいよこれから主イエスが受難の道を歩むという時にも、弟子たちは、誰が偉いかで議論していたのですから、(自分のことを棚にあげますが)しょうもない弟子たちだなと思わざるを得ません。そのような議論が、自分は誰それよりも偉い、お前はだめだ、などという議論だったとすると、わたしたちは自分たちとは関係ないと思ってしまうかもしれません。具体的にどんな風であったかはわかりません。しかし、次のように考えてみると、身近かもしれません。
皆で話しているときに、「我々の中で一番弟子といったら何といっても、ペトロだな」「われらの弟子集団は、ペトロがいるからまとまってるんだ」なんて誰かが言ったとします。言われたペトロは、「いやいや、わたしはもともとが漁師だから教養はないし。わたしが一番偉いなんてことはないよ。会計を任されているユダじゃないかな」と言えば、ユダはユダで「いえいえ、私など小賢しいだけで、いつも先生に叱られてばかりです」と言う。「先生に一番愛されてるのはヨハネだよ」「ヤコブだって存在感あるよ」とか。そんな話の中で、互いに、私が偉いなんて言わないでください、あなたのほうが主の弟子としてふさわしいです、などと議論していたかもしれません。そんな様子のほうが、日本人であるわたしたちには身近かでしょう。互いに自己卑下しあうような話、互いに謙遜自慢をしてしまうようなことが日常でもあるように思えます。
しかし、こうした議論も何を目当てとしているのか、というと、どこかに自分を認めてほしい、という気持ちがあるように思えます。何人かで、「あの人はすごいね」とか話があって、皆それぞれが言われているのに、自分だけが話題にもならなかった、というと、ちょっと寂しい感じもします。また、「あなたは皆に愛されてますよ」とか「皆に尊敬されてますよ」などと言われると、心の奥底がくすぐられます。
「偉くなりたい」という思いは、自分を認めてほしい、という承認欲求の一つと考えられます。他者からの尊敬、地位や名声、権力や他人からの注目などを得たいという思いの現れだからです。時には承認欲求は、自己肯定感と関係します。時には努力することに向かわせ、自己を高める方向に向かうこともありますが、他者との比較をすることによって自己を肯定しようとするならば問題が生じます。
子どものように
主イエスは、そのように偉くなろうという思いを、すなわち他者と比較して自己を肯定しようという思いを、見抜かれます。主は、いつもわたしたちの心の底にあるものを見ていてくださるのです。そして、主イエスは、子どもの手をとって、その子をご自分のそばに立たせました。
今回読んで、ちょっとあれっと思いました。主イエスのそばに子どもがいたってことです。弟子たちや大人たちが周りを囲んでいたのかと思っていたら、子どもが近くにいたことが分かります。「手をとって」というのですから、子どもをご自分のそばに連れてきたことになります。弟子たちから見れば、主イエスが自分たちの中心にいたことでしょう。その中心に子どもを連れてきて、ご自分と一緒に立たせたのです。
そして、「私の名のためにこの子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」「一番小さい者こそ、最も偉い者である」と言われました。
最も偉い者とは最も存在感があるということです。すなわち主イエスは最も小さい者を重んじなさい、中心にしなさいと言われるのです。子どもは、いつの時代でも一人の人間として扱われないものです。今の時代、子育て支援などと言われますが、子どもを中心とした支援ではなく、親が子育ての負担を軽減するという仕方での支援です。でも、どこかで子どもは親から切り離されてしまわないだろうか、という思うところがあります。そこから社会の中で無視されてしまうような小さな存在を中心におくことにこそ、神の国の本質が現れます。そのようにして、一人一人が大切であるということが守られます。それが、教会の目指す方向にもなります。声なき声、小さな声に気づかされながら他者と共に生きることを、神は望まれているのです。
最近、ジェームス・ボルドウィン(アメリカの黒人作家)のドキュメンタリー(https://www.youtube.com/watch?v=lNTWRRPvhKg)や、日本の入国管理局における外国人に対する扱いについての番組(https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/5PGGPK2R2Y/)を見る機会がありました。最初は小さな声でもそこから社会が動かされることがあります。主イエスに従うことは、小ささや弱さを大切にすることとつながります。
自分の中の子ども
さらに、子どもを中心におく、ということで思い起こすのが、主イエスのところに大勢の人々が子どもを連れて来た時のことです(ルカ18:15-17)。弟子たちが、子どもたちを追い返そうとしたところ、主イエスは、「子どもたちをわたしのところに来させなさい」と言われました(ルカ18:16)。そして「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われたのでした。
1990年代前半アダルトチルドレン(AC)が注目されました。ACとは親に愛されなかった経験が、生きづらさにつながっている人達を指します。その場合、無垢な子どもの状態(インナーチャイルド)を大切にしていく回復法が語られていました。アダルトチルドレンに影響を与えた家族を機能不全家族などと呼んでいました。
そこまでいかなくても、70年代に『原初からの叫びー抑圧された心のための原初理論』(アーサー・ヤノフ)っていう本によって、幼少期に受けたトラウマ(心的外傷)の治療法として絶叫療法というのが紹介されました。人は、生まれて間もないころから、大なり小なり抑圧を体験します。「お母さん、もっと抱きしめて」「お父さん、もっと遊んで」とか「もっと話を聞いて」という声が聞かれなかった経験をどこかでしてしまいます。そのような心の叫びは、大人になると押し殺してしまいますが、実は深いところで残っていて、何かのきっかけに怒りとなって噴出したり、虚無感に襲われたりしてしまうというのです。最初の叫びを叫ぶようにしてそのトラウマから解放されるというのが絶叫療法です。「ママ、行かないで」とか「なんで俺を無視したんだ!」といった怒り、悲しみを表に出して、本来あるべき自分を取り戻し、自己を受容していくことができるのです。
誰かに負けたくない、偉くなりたい、という気持ちの奥底に、そのままの自分を受け入れられない要素があるように思えます。両親だけでなく、教師や周囲の大人たちの姿に傷つけられ、それをばねに生きる人もいれば、反対に自分なんかどうせだめなんだ、とあきらめてしまうこともあります。そう極端ではないにしても、そのような要素が誰にでもあるのではないでしょうか。
そのネガティブな自分との和解も、聖書が語る罪の赦しが含むことです。ですから主イエスとの出会いが私たちには必要です。主との出会いが自分自身に与えられた命の恵みを知らせるものとなるからです。
このように、今日の言葉には、小さな立場の人たちを理解し、小さな者を尊重していくという方向と、自分自身の中にある傷ついた子どもを受け入れるという方向があるのです。