聖 書 ヨナ書3章10節 (旧約p1447) ルカによる福音書23章26~43節 (新約p158)
説 教 「楽園にいる者」 柳谷知之牧師
主イエスの十字架にいたるまで
先週(22日)の聖書箇所。最後の晩餐の場面。
その後、主イエスはペトロの離反を預言した。
さらに、オリーブ山のいつもの場所(マタイ、マルコではゲッセマネ)に弟子たち(マタイ、マルコではペトロ、ヤコブ、ヨハネ)を伴って行き、そこで一人になって祈られた。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」苦しみもだえ祈る主イエス。
そのときに、群衆とユダがやってきて、主イエスは捕らえられた。
ペトロはなんとか遠くから離れて主イエスを追ったものの、結果的に三度主イエスを否認した。
主イエスは、最高法院(サンヘドリン)で裁判を受けた。
さらに、ローマ総督ピラトのもとで裁判を受けた。
ピラトはヘロデ(アンティパス)にもあざけられた。
死刑の判決を受け、十字架につけられた。ローマによって死刑にされる。
政治犯として(ユダヤ人の王)として十字架につけられる。
キレネ人シモンが主イエスの十字架を背負わされた。
十字架の横木を追う。 それだけ主イエスは力を失っていたのではないか。
主イエスと一緒に二人の犯罪人が十字架につけられた。
一人は、主イエスの右に、もう一人は左につけられた。
「人々がくじをひいて、イエスの服を分け合った」(34節)
(彼らは)「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」詩編22:19 の成就。
詩編22編は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」で始まる詩。
神に見捨てられたと感じる者の極限状態を示しつつ、最後は、神への信頼を回復している。
主イエスの十字架上の言葉
①「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)
②「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)
③「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:26-27)
④「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46、マルコ15:34)
⑤「渇く」(ヨハネ19;28)
⑥「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(46節)
7つの言葉として知られている言葉がある。そのうちの二つが本日のルカによる福音書に表れている。
主イエス自らが、自分を十字架につけた人々を赦してください、と神に願う。
この言葉は、重要な写本にはないが、主イエスの愛敵の教えをあらわす。敵を愛する主イエスの姿―逮捕されるとき、弟子のひとりが大祭司の僕に打ちかかって右の耳を切り落としたが、主イエスがその傷に触れていやされた(ルカ22:50-51)。また、石打ちの刑で殺されようとするステファノの言葉「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7:60)と重ねられる。
また、主イエスの十字架の意味をあらわす。主イエスの十字架の死は、私たちの罪の赦しのため。
人々のあざけり―「他人を救ったのだ。もしメシアなら自分を救うがよい」
犯罪人の一人も「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と叫んだ。
しかし、もう一人の犯罪人は、それをたしなめて言った。
「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに、我々は自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」
十字架という極限状態にあって、人間であることを保つのはどちらであるだろうか?
人間性は、何によって保たれるのか。
神への畏れではないか?
人間が自分の弱さを知りつつも、それにとどまらず、自らの力を超えて働く神の力を畏怖をもって受け止めること、信じること、その神の前にへりくだること、を通して、人間性は保たれる。
犯罪人の赦し―悔い改める時に、遅い時はない。
神自身が思い直される方―ヨナ3:10
十字架の死の間際に、主イエスを認めること、自分の罪を悔い改めることを通して、楽園が約束される。
楽園に入る―あなたは今日、わたしと一緒に神の祝福と喜びに入る。
参考 イザヤ書51:3
主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め 荒れ野をエデンの園とし、荒れ野を主の園とされる。
そこには喜びと楽しみ、感謝の声が響く。
わたしたちも、その楽園に招かれている。