2022年3月6日 礼拝説教 受難節第1主日

聖書
 旧約聖書 ヨエル書2章12―13節 (旧約p1423)
 福 音 書 ルカによる福音書19章1~10節 (新約p146)

説教 「木から降りて来なさい」 柳谷知之牧師

エリコの町
 主イエスはエリコという町に入られました。エリコは、標高が海抜マイナス258mです。世界で最も低い町ということです。主イエスは、最も低い町で、人々から嫌われ軽蔑されていたザアカイと出会われるのです。

ザアカイ
 エリコには、ザアカイという徴税人の頭がいました。徴税人の仕事はローマ帝国から課せられた税金を集めることでしたが、ユダヤ人たちにとっては敵であり憎むべきローマ帝国の手先として映りました。おまけに、税金を集めるのに、規程の金額ではなく、それより上乗せして集めていました。というのも、徴税人は給与が別に定まっていたわけではなく、集めたお金から、自分の取り分を決めることができたからです。定められた金額以上を集め、税金をローマに納めた残りを自分の取り分としていました。ですから決められた税金の金額よりもかなり多く取り立てて、自分の私腹を肥やしていた徴税人たちも現れていたのでした。彼らがそのようにして私腹を肥やせば肥やすほど、人々からは軽蔑され、また当時の社会の律法においても、汚れた者・罪人の代表的な存在となっていったのでした。このザアカイも金持ちでした。何人もの徴税人の頭となり、私腹を肥やしていたのです。税金の取り立てが厳しい場合もあったことでしょう。ザアカイを恨んだり嫌ったりしている人は数多くいたにちがいありません。
一方、徴税人になる人の立場から見ています。皆に嫌われているような徴税人になりたい人は通常ならいないと考えられます。あえてそのような仕事に就くのは、他の仕事に就けないから仕方なくなったという理由もあったでしょう。力仕事は出来ない人や、他の人よりも秀でた能力がないとか、出自が悪いというような差別を受けている場合など、通常の仕事には就けない人たちが徴税人になった、という場合もあったことでしょう。徴税人だから差別されていた、というよりも差別されていたから徴税人になるしかなかった、という人もいたのではないか、と考えられるのです。

そのザアカイが、主イエスが来るという噂を聞きました。
道端から主イエスの姿を見たい、どんな人だろうか、見たかっただけでした。ザアカイは、主イエスが徴税人と一緒に食事をした人だ、と聞いていたことでしょう。嫌われ者と一緒に食事をする人なんているのだろうか。いるとすればどんな人なのだろうか、興味深々だったことと思います。
しかし、ザアカイは背が低かったのです。道端から主イエスを見ようとしても、誰もザアカイを前に出してくれる人もいなかったのです。
そこで、ザアカイは主イエスが来る場所を先回りして、いちじく桑の木に登って、主イエスが来るのを待っていることにしたのです。

主イエスとザアカイ
 いよいよ主イエスが通りかかりました。主イエスは、ザアカイがいるいちじく桑を上を見上げて、木の登っているザアカイを見つけて、彼に声をかけたのです。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。
すると、ザアカイはすぐに降りて来て主イエスを喜んで迎え入れたのでした。

降りる生き方
 ザアカイは、自分と関わりのないところで、高みの見物のように主イエスを見ようとしていました。しかし、心の奥底には満たされない思いがあったことでしょう。徴税人と食事をし、それを社会のリーダーであった律法学者やファリサイ派の人々にとがめられても、臆することがない、そんな主イエスはどんな人だろうか、どうしても見てみたかったのです。ですから、人々にさえぎられても木に昇ってまで見ようとしました。しかし、主イエスが声をかけられなければ、ザアカイと主イエスは出会うことはありませんでした。

主イエスは、徴税人の頭であり金持ちであるザアカイを見ておられます。この出来事の前には「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(ルカ18:24)と言われているにも関わらずです。主イエスは金持ちだからといって招かないのではありません。主の招きは誰にでも向けられています。金持ちの議員は、主イエスから「持ち物を売り払って貧しい者に分けてやり、わたしに従いなさい」と言われたときに、悲しんで従うことができませんでした。

しかし、ザアカイは、主の呼びかけに直ちに応えたのです。それだけに、ザアカイの心の奥底には主イエスに対する求めがあったのではないでしょうか。

このザアカイとわたしたちは、全く関係のない者でしょうか。私たちの中にも、ザアカイのような思いがあるのではないでしょうか。

心の奥底には、自分などいてもいなくても関係ないのではないか、という思いや、人から踏みにじられた経験が少なからずあるでしょう。それらに打ち勝とうとして、自分を強い者にしていく努力をしてきたかもしれません。しかし、主イエスはそのような私たちのありのままを認められます。その愛に応え悔い改めることができます。悔い改めることは、上昇志向ではなく、降りていく生き方です。

主を家に迎える
 ザアカイは、主イエスを家に招き入れました。それはザアカイの喜びでした。一方、それに異を唱えるものたちがいました。
「あの人は、罪深い男のところに行って宿をとった」と。
このように人々は、ザアカイを罪深い男として、交わりを避けてきましたし、主イエスがそんな罪深い男の所に行くなんて、信じられない、という思いで非難したのです。

しかし、主イエスはザアカイの孤独や強がりなどを見ておられます。そして、ありのままのザアカイを受け止め、ザアカイの家に泊まられました。

ザアカイも主イエスに言われて本当の自分が出たのではないでしょうか。

彼は、立ち上がって主に言いました。

「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだましとっていたら、それを四倍にして返します。」

ザアカイは、自分が確かによりどころにできる方に出会いました。「立ち上がる」という言葉は、確かに立てる場が与えられたことを語っています。それまでは、人の信頼を裏切ってでも、自分の力に頼み、財産を蓄えることに邁進してきたのです。そうでなければ、自分自身が立たないと思ってきたのです。

しかし、主イエスに招かれ、主イエスを自分の家に迎え入れることで、これまで自分がよりどころとしたところが崩されました。ですから、財産の半分を貧しい人たちに分けること、だまし取っているものがあれば、4倍に返す、という宣言ができたのです。ザアカイの悔い改めであり、方向転換があります。

ザアカイがどのようにして徴税人の頭までなったのかは分かりません。人との信頼関係よりも、自分の力やお金の力に信頼するようになった経緯を知ることはできません。しかし、人は自分が不安でいるとき、自分の存在が脅かされればされるほど、他者よりも自分の力により頼み、神よりもお金や権力また名誉にこだわるのではないでしょうか。

現在、私たちの心を占めている出来事に、ウクライナとロシアの戦争があります。ロシア国民の中にも戦争に反対する人たちがいることを聞きます。プーチン一人だけの問題でもないでしょう。しかし、ある人は、プーチンは大変臆病な人だ、と指摘していました。ドイツのメルケル首相と会談する時も、犬を連れて来ていた、と。自分を守るものを必要としている、とのこと。ウクライナが西側諸国の仲間入りしてしまうことを懸念し、再びロシア帝国を、と夢見ている、とのこと。まだ何が本当のことか確かではありませんが、ウクライナにおける戦闘が止むことを願うとともに、プーチンはじめロシアの政府にある不安が取りのぞかれ、主が彼らの内に留まってくださるように、そして、暴力に頼らないようにと祈ります。

私たちも主イエスを迎え入れることで、限りない平安に導かれ、平和の使者として遣わされることになるのです。

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