2021年12月12日 礼拝説教 待降節(アドヴェント)第3主日

聖書
旧約聖書 イザヤ書40章1-8節 (旧約p1123)
福 音 書  マルコによる福音書1章1~8節 (新約p61)

説 教 「主の道を備えよ」柳谷牧師

待つ

「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と預言者は神の言葉を取り次ぎます。

これは、イスラエルの民が新バビロニア帝国によって国が滅ぼされ、バビロンに連行されていた時代に語られた預言です。バビロン捕囚(紀元前587―539年)と言われている歴史的な出来事として知られています。この預言はバビロン捕囚がはじまっておよそ40年ぐらい経っていたと考えられています。

国が亡びる体験をし、他の国で捕囚の民として過ごしていたイスラエルの民は、いつか故郷に帰ることを希望していました。そして、ダビデ王に優る王が現れイスラエルを治めること、さらに他の民族も支配下に置くことを望んでいたのです。イスラエルでは王や祭司、預言者が任職を受ける時、すなわち神から選ばれた者のしるしとして、油を注がれていました。そこで、この王は油注がれた者を現すメシアと呼ばれました。

「慰める」という言葉は、「力づける」「励ます」「勇気づける」という意味を持っています。他国で囚われの身となっていたイスラエルの民を力づけ、勇気づけるという使命を預言者は担いました。イスラエルが犯した罪や咎の報いは十分受けたのだ、という神の言葉が続きます。神はイスラエルの苦難はもう十分であると認められたのです。バビロン捕囚は、イスラエルの民に対する神の罰であると考えられていました。神以外のものを頼みとした結果、苦しまなくてはならなかったのです。しかし、あなたがたはもう十分苦しんだのだと神は語られるのです。解放の時が近づいているのです。意気消沈したり絶望する必要はない、という意味で、神はイスラエルの民を力づけ励まされるのです。

人々はその時を待ちます。

歴史的には、実際にこの預言から間もなく、新バビロニア帝国は滅び、ペルシャ帝国による支配がはじまります。ペルシャ王キュロス2世によってイスラエルの民はバビロンから解放されエルサレムへの帰還が許されました。しかし、自分たちの希望したようにイスラエル王国の再建はなりませんでしたし、メシアも現れませんでした。その後も人々は救い主を待ち続けることとなったのです。しかし、何のしるしもないままに待っているのではありません。来るべきメシアが現れる前にどのような予兆があるのか、イザヤが告げた通りに「荒れ野で呼びかける声(荒れ野で叫ぶ者の声)」が現れるのを待っていたのです。

荒れ野で呼びかける者の声

イザヤが預言をしてから500年ほどが経って、主イエスが現れます。主イエスの道を備える者として洗礼者ヨハネが現れました。そのヨハネは、「荒れ野で叫ぶ者」でした。「荒れ野で叫ぶ声」は、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」働きを担いました。それは悔い改めの洗礼でした。「悔い改め」を考える時に、もともとのイザヤにおける言葉と合わせて考えてみます。

イザヤ書において、「荒れ野で叫ぶ声」は、なんと告げているでしょうか?

「主のために荒れ野に、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ40:3)と語ります。

どのように広い道が通されるのか、続いて語られます。

「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」と命じられます。

谷や山、丘、険しい道、狭い道は、比喩として語られています。人間が平等ではなく、格差があり、低いところにいる者もいれば、高みに立つものもいる。生きづらさを抱え、社会の底辺に行けば、険しい道しかない。そのすべてを平らにしていくこと、それが主のために道を備えることなのです。

最終的にメシアが来られて、谷は高くされ、山と丘は低くされるのですが、メシアを迎える前に、人はその時が来ることを備えるのです。どんな人も神の前では等しい人間として扱われることを望むならば、当然、意識としてそのことをはじめなくてはならないでしょう。神の支配を待ち望む時、人は誰でも尊厳をもって生きているということが現されなければならないのです。

身を起こす

まず「谷はすべて身を起こせ」と語られます。

最も低いところにいる者も「身を起こせ」という意味です。

人間の尊厳がないがしろにされている時に、いわゆる差別と闘う人々は、制度的な平等、差別をする者の意識を変えるというだけでなく、差別される側の意識も変えていきました。すなわち差別される人たちの中には、劣等感が植え付けられ、自分たちは差別されても当然という意識があったからです。

南アフリカの人々がアパルトヘイトと戦っていた時に、スティーブ・ビコというリーダーがいました。彼は黒人自身が持つ人種的劣等感を払拭する必要があると考え、既にアメリカの公民権運動などで一般化されていたスローガン「ブラック・イズ・ビューティフル」を「黒人意識」という思想に発展させました。ビコは南アフリカの黒人たちの文化のすばらしさを掘り起こし、歴史を回復しようとしました。そのようにして差別されている側の誇りを取り戻し、人々を教育していきました。

同じような働きは、日本でも在日韓国・朝鮮人の差別と向き合う時、部落差別と闘う時にもあります。低くされている者が、自分たちの尊厳を取り戻すことが大切な働きです。

それは、社会的に差別されている人だけに当てはまるものではありません。

この社会でも、能力主義的な教育によって劣等感を持ち、自分は何の価値もない、と思うような人たち、そのような意識に追い込まれた人たちに対しても言えることです。また誰もが持つ劣等感ということともつながるでしょう。一人一人が自分の尊厳を取り戻していくことがこの「谷はすべて身を起こせ」に現されています。

身を低くせよ

一方「山と丘は身を低くせよ」と言われます。

おごり高ぶる者、社会的な地位が上である者たちに対して、身を低くすることを求めます。他者を従えようとする人たち、すべての人が平等の価値を持つことを否定する人たちに対して語られます。主イエスが次のように言われたことにも関連するでしょう。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:26,27)

悔い改める

洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授けたように、救い主を迎える備えとは「悔い改める」ことです。その悔い改めが、主イエスによる罪の赦しを受け入れるか、ということにつながります。実際に洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」という勧めに従って、当時の律法主義的な社会においてはみ出した人々、低くされた人々が集まってきました。兵士や罪人と呼ばれる人々も集まって来ました。集まってきたイスラエルの指導者層に向かっては「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:7)と戒めました。

「悔い改める」ということは、悪いことを反省する、といった狭い意味ではなく、考え方を切り替える、これまでの考えを改める、向きを変える、という意味を持っています。

「向きを変える」ということが、イザヤ書でも語られています。預言者は人々に何と呼びかけたらよいか、と問うと、神は、肉なる者のむなしさと、神の言葉が普遍であることを語ります。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」のです。「悔い改め」の根本は、人間や人間がつくりだすもののむなしさを知ることと、神の言葉は普遍的でありいつまでも変わらないものであることを知ることにあります。人間がどんなに他者の上に立とうとも、あるいは低いところに立たせられたとしても、むなしいものであり絶対的ではありません。人は花を求めます。どんな栄華を極めても、それらはむなしいもの、移り変わるものです。自分が何をなしてきたかにこだわるところがあるのでしたら、考え方を切り替えなくてはなりません。主が示されたことは、死して実を結ぶことだからです。

いつまでも変わることのない神の言葉により頼むことが主を迎える備えです。

神の言葉(出来事)である主イエス・キリストを迎える備えとなるのです。

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