2020年6月28日聖霊降臨節第5主日 礼拝説教

聖 書

旧約聖書  コヘレト12章13節 (旧約p1048)

福 音 書   ルカによる福音書6章20~26節 (新約p112)

説 教 「貧しい人々は幸い」

弟子たちを見つめて

主イエスは、平らなところにたって大勢の人々を教えたり、病を癒し、悪霊を追い出したりされていました。

そこから、弟子たちを見つめて言われます。

「貧しい人々は幸いである…今飢えている人々は、幸いである。… 今泣いている人々は、幸いである。」と。

どういうことか、戸惑います。どうして貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々が幸せである、と言えるのでしょう。人間の気持ちとしては、幸せであるとはとても考えられません。今泣いている人に対して、「あなたは幸せですね」と言えることはありません。ですから、考えます。「幸いである」と訳されている言葉に、もっと違う意味はないのだろうか、と。また、これは特に主イエスが弟子たちを見つめられて言われた言葉だ、というところにも関心を持ちます。主イエスのもとに来た一般の人たちに対して語られた言葉ではないのだ、というところに、もう少し深い意味があるのではないでしょうか。

また、これらの幸いである、という人々に続いて、「不幸だ」と言われている言葉はどのような意味でかたられているでしょうか。

このようなことを考えながら、本日の聖書を共に読んでいきます。

幸いである

 まず、「幸いである」という言葉を見ていきます。ギリシャ語ではマカリオスという言葉です。ヘブライ語のアシェールという言葉になります。そこには人が幸せを感じる、というだけでなく、「祝福されている」という意味もあります。すなわち、「貧しい人たち」「飢えた人たち」「泣いている人たち」は、神から祝福されているよ、と主イエスは言われているのです。

貧しい人たちに対して、「神の国はあなたがたのものである。」と言われ、飢えている人たちには「あなたがたは満たされる。」と言われ、泣いている人たちには「あなたがたは笑うようになる」と言われます。主イエスは、弟子たちを見つめつつ、「あなたがたは」と呼びかけられます。弟子たちの中に「貧しい人たち」「飢えている人たち」「泣いている人たち」がいるのです。ある安息日に、主イエスと弟子たちは麦畑に入って麦の穂を摘んで手でもんで食べました。安息日でなければ、貧しい人々、飢えた人々に許されていたことです。主イエスたちは、旅人であり、貧しく飢えていた人たちであったのです。

貧しい人たちが、なぜ貧しいのか、飢えた人々がなぜ飢えているのか、ということには、様々な議論があることでしょう。貧しい人たちや飢えている人々が、働かないから貧しいのだ、食べるものが満たされないのだ、という声はいつの時代にもあります。あるいは、働いてもそれ以上に散財するからだ、お酒を飲んだり、かけ事などで無駄に財産を使い果たしてしまうからだ、と言われます。いわゆる自己責任論です。一方、それだけではないことを私たちは知っています。社会的な状況があり、貧しい人たちが貧しいままであるというのは、本人の責任だけとは言えない面があります。病気のために働くことができない、医者にかかって財産を使い果たしてしまったり、人から騙されて多額の借金を負ってしまったり、あるいは親の世代から貧しいままである、という人々もいます。社会や他者の助けが得られない人々が貧しい人々となっている場合があります。そして、主イエスは「今」を強調されます。「今」が満たされていない人たちがいるのです。「今」このときに誰も頼りにできない人たちがいるのです。彼は、もしかすると生きている意味や価値を見失い、自分を助けてくれる者は一人もいない、という孤独の中に陥っている場合もあります。すべてのものから見放されていると感じざるを得ないのです。

そのような人たちに主イエスは「あなたがた」と語りかけます。そして、神はあなたがたを決して見捨てないのだ、と語るのです。「神の国はあなたがたのものだ」と。すなわち、あなたがたを神が支配され守り導いているのだ、と。神が共にいてくださる世界それが神の国です。今飢えている人たちも、食べて満たされるよ。今泣いている人たちは、笑う日がくるよ、と言われています。

この世界に何の頼るべきものを持たない絶望せざるを得ない人たちに、主イエスは、希望を語るのです。

そして、主イエスの言葉はここで終わりません。

「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」

これは、弟子たちに対する主イエスの言葉です。主イエスに従う者は、主のためにののしられ、憎まれ、汚名を着せられる、迫害されます。しかし、それは幸いなこと、祝福されていることです。かつて預言者たちが迫害されたように、主イエスのために迫害されるのです。それは、今のわたしたちにも語られていることです。

わたしたちは、この世界の価値観、世の中の常識に従って生きているのではありません。それが周囲との間に軋轢を生みます。特にこの日本の風習の中で、神社や仏教の習慣や日曜日の様々な行事にいたるまで、キリスト者として生きることは、いつも葛藤をもつものです。大きくいえば、天皇制や戦争の問題に関しても、わたしたちは世に倣ってはならない、という思いを持つものです。

今年は、特にこのコロナウィルスの感染予防に努めなければならない時期、人が集まることに対して、引け目を感じることがあるでしょう。周囲の目を意識させられます。

しかし、それが絶対的ではありません。

様々な策が講じられることでしょうが、基本的にはわたしたちは主のために生き、主のために死ぬ、ということです。そこには絶望はありません。そして、むしろ主はそうしたときこそ天において大きな報いがあるといってくださっています。もともとの聖書の言葉では、喜びなさい、そして、躍り上がりなさい、と言われるのです。最上級の喜びがあるのです。

神が共にいてくださり、わたしたちが貧しくても、また飢え渇くことがあっても、泣き悲しむことさえあっても、嘆きを喜びに変えてくださるのです。

また、絶望的状況であればあるほど、わたしたちは神にしか頼りにできません。その時ほど、深く神に出会うことができるのです。

東日本大震災があったとき、私の弟の牧する新生釜石教会の会堂と牧師館は津波の被害にあいました。そのとき、弟の雄介牧師は「今こそ祈りの時」と教会の壊れた扉の前に貼りました。人の想定をはるかに超える出来事が起こった。神も仏もない、という人がいるが、むしろだからこそ、神に祈らなければならないのだ、と思った、というのです。すべてを失ったものしか発見できない恵みがあるのです。すべてを失っても、その自分を支える神にはすべてがあるからです。あの大震災はそういう意味で、多くの人に本当に大切なものはなにかを発見させるきっかけとなったのではないでしょうか。被災地で出会ったある年配の女性は、「着物や宝石などあらゆるものを失ったけど、命が助かった。失ったものを惜しいとも思わない」と言っていました。また私の友人は「仕事よりも家族が大事だと分かった」と言っていました。同様に、わたしたちも貧しさや弱さをしるからこそ発見できる自分自身を根本から支える方、すなわち神との出会いがあるのです。神は私たちの持物や経験によらず、さらに死にも打ち勝たれた方です。その方が私たちと共にいてくださる、その確かさを得ることができるとすれば、なんと幸いなことでしょうか。

不幸である

一方、主イエスは、続いて「不幸」について語ります。しかし、それは突き放すような裁きの言葉ではありません。

「あなたがたは不幸だ」と訳されていますが、もともとの言葉では、深い嘆きの言葉です。

深い悲しみの時に発するうめきの声です。

ギリシア語では、ウーアイという音です。

「ああ」、「う~」といったうめき、嘆きの声です。

主イエスは、富んでいる人々、今満腹している人々、今笑っている人々そしてすべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である、と言われますが、それは災いにある人を突き放すのではなく、どうか立ち帰ってほしい、そのような思いをこめた主イエスご自身の嘆きを伴っているのです。

そして、ここでも、弟子たちに対して、あなたがたと語られます。貧しい人々と違う人たちに対して語られているのか、というとそうではありません。

貧しい者、飢えている者、泣いている者、迫害されている者である弟子たちですが、同時にその中に、富むものとなりたい、満腹したい、笑いたい、人からほめられたい、という思いを持つものです。誰が偉いかをつい議論してしまう者たちです。主イエスが、神のご計画である十字架の道を歩まれようとするときも、そのことを全く理解できませんでした。そのような弟子たちを見つめて、主イエスは嘆かれるのです。それは、突き放して言われるのではありません。愛のまなざしをもって、貧しいこと、飢えていること、泣き悲しんでいることを忘れてはならない、と伝えているのです。人間は誰もが弱さを抱え、足りないことを抱えているのだ、神ではないのだ、と語るのです。

無力な者、無学な者としての選び

最初期の教会においても、教会には様々な人たちが集まっていました。自分を偉く見せようとする人たちもいました。金持ちが貧しい者たちを差別していることもありました。

ヤコブの手紙はそのことを伝えています。(2章3-5)

「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」

これと関連することをパウロも語ります。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」

そのパウロも当時の教会の状況を次のように述べています。

「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。」(Ⅰコリント4章7‐8)

神は、貧しい者を選ばれ、世のおごり高ぶる者、富むもの、知恵あるものを無力なものとされるのです。また、わたしたちは自らの力を失っていく時ほど、自らの貧しさや弱さを突き付けられるときほど、ますますわたしたちは神との深い交わりに導かれるのです。

そこに、貧しい者の幸い、飢えている者の幸い、泣く者の幸いがあります。

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