2020年6月21日 礼拝説教

聖 書
旧約聖書
 イザヤ書31章1節        (旧約p1110)
 福 音 書 ルカによる福音書6章17~19節 (新約p112)

説   教 「イエスから力が出る」(イエスこそ力の源)

山からおりる
 主イエスは、いっとき山に登られ徹夜で祈った末に、十二弟子すなわち使徒を選ばれました。そして、山を下りられました。
山は特定の人しか行くことができません。主イエスに近づくことができるのは、弟子たちだけでした。
その山をおりて、主イエスは、平らなところに立たれたのです。それは、誰でも来るところができる場所です。
平地に立たれた、という姿は、主イエスがどんな人をも分け隔てをしないで、同じ人間として見られることを示します。
そこに、大勢の弟子たちと、おびただしい人々が来ました。
人々は、ユダヤ全土、エルサレムといったユダヤ地方だけでなく、海に面したシドンやティルスといったフェニキア人の町々からも来たのでした。主イエスのうわさ、評判はユダヤ人だけに関わらず、現代のパレスチナ地方に広がり、ユダヤ人たちにとって異邦人たちにも広がっていたのです。

教えを求める人々
 人々は、まず第1に主イエスの教えを聴こうとしてきました。主イエスの言葉を聴きに来たのです。その言葉に力があること、驚きがあり、喜びがありました。
主イエスが地上を歩まれた時代のユダヤ社会は、律法主義的でした。神の救いの恵みに応えて律法を厳密に守っていました。モーセ五書に示されている以上に、自分たちで細かな規則をつくって厳しく律法を守っていました。そのようにして、自分たちの信仰を表しました。しかし、自分たちが守ることをさらにすべての人に適用させようとします。自分たちは律法を守ることができる恵まれた人間で、神に選ばれているという自負をもちました。反対に、律法を守ることができない人々を裁き、排除してきました。そのような社会にあって、主イエスは律法の本質、聖書の本質を説きました。それは、神の恵みが先行すること、神の祝福から誰も漏れることはない、ということです。そして、どんな人もがアブラハムの子とされる、すなわち選ばれた民となることをしめされました。そして、信仰の喜びを回復されました。安息日に癒しの奇跡をおこして、共に命を喜び祝いました。それは、ユダヤ人の中で差別されていた人たちだけでなく、異邦人たちにとっても喜びでした。ユダヤ人たちに蔑まれてきた人々が、これまでと異なった響きの言葉を聞きました。主イエスのもとに集まってきた異邦人たちは、ユダヤ人である主イエスの口から、自分たちを認める言葉を聴くことができたのです。

 癒しを求める人々
 人々が主イエスに求めていたのは言葉だけはありませんでした。病が癒されることを期待していました。これまでも、数々の奇跡によって主イエスは病を癒されました。その癒しは、言葉を伴うものでした。重い皮膚病を患っている人を癒されました。寝たきりの中風の人を癒されました。安息日に手が不自由な人を癒されました。病であることは、病気の苦しみだけでなく、他者との交わりが絶たれたり、制限されたりしました。人間としての存在が認められていませんでした。そのような病人を主イエスは、真ん中に立たせました。また、罪の赦しを宣言されました。病の癒しは、その人を共同体の中で存在させることになりました。

悪霊を追い出されること
 また、汚れた霊に悩まされていた人々も癒されました。汚れた霊とは、悪霊のことです。「汚れた」がもともと意味することは、「神との関係を絶っている」ことです。すなわち、汚れた霊は、神との関係を破壊する力です。汚れた霊を追い出すことは、人が神との関係を回復する一歩となります。汚れた霊を追い出し、そこに神の霊すなわち聖霊を宿すことによって、人は神との関係を回復し、神と共に生きることができるようになります。「悪霊」は、人を神から引き離す力であり、精神疾患の枠にだけに限定されるものではありません。現代社会もまた神を忘れ、神なしに生きようとする世界です。便利で快適な社会を目指しますが、その結果、人々はますます忙しくなり、人間性を奪われているのではないか、と思えます。その意味では、現代社会にも汚れた霊が存在します。そして、神を忘れた社会とは、祈りを持たない社会です。何のために存在し、生きるのかを見失っている社会です。
ですから「悪霊を追い出すこと」は、単なる精神疾患を癒すということ以上に、神の国をもたらす働きを表します。

主イエスに触れる
 さらに、人々は主イエスに触れることを求めました。そのことによって、主イエスの力を受けることができたからです。
主イエスに触れる、ということで思い起こすのが、出血が止まらずに苦しんでいた女性が、主イエスの衣のすそに触れただけで癒された、という出来事です(ルカ8:40以下)。大勢の群衆が主イエスに押し寄せている状況で、この女性は気づかれないように主イエスに触れたのですが、主イエスはそこでご自分の力が出ていったことを感じて、この女性を探されました。
主イエスから私たちに触れてくださるのでなくても、わたしたちが主イエスに触れることで癒されるのです。病が癒され、悪霊を追い出すことができるのです。
私たちはどのようにして主イエスに触れることができるのでしょうか。
それは、主イエスの言葉に触れる、ということです。主イエスの言葉に従って聖書全体が神の言葉としての響きを持ちます。またみ言葉に促されて、日々の出来事が神の出来事としてとらえられることもあります。そして、神の言葉に触れる、主イエスの言葉に触れる、ということを通して、自己中心的な思いから解放されていきます。

自己中心から神中心に
 先日、『世界中の億万長者がたどりつく「心」の授業』(奈美バーデン、河合克仁)という本を無料で読めたので、ざっと見てみました。どんなにこの世で成功しても、「心の平安」が得られなければ、不幸である、と語られ、どうしたら心の平安が得られるか、ということでした。そして、トップアスリート、優秀なスポーツ選手が競技に臨むときに、心を落ち着かせるメンタルトレーニング(いわゆる雑念を払い平常心でいるようにする訓練)をしているのと同じように、わたしたちも日常でそのことを訓練する必要があるのではないか、と言って、4つのステップを提案しています。第1に自分の苦悩に気づくということ。自分の心が曇った出来事を挙げていきます。2番目にその心が曇った出来事に対して、どのような心の声があるか、15個以上挙げます。本当に正直な心の声は、最後の方になってこないと出ない、というのです。3番目に、その声が、どれくらい自己中心的であるか、ということを探ります。自分がしがみついていた理想像を発見します。それが苦悩の正体になります。理想像は1つ、2つではなくもっとある、ということですが、ステップ3が本当にうまくいくと、人は自分の理想像を手放して、「美しい心」「平安な心」になるということでした。そして、ステップ4で、自己中心から解放された心で、新しい行動に移る、新しい態度に移る、というものです。そのために、日々瞑想をすることをすすめています。
いわゆるHow toものですが、瞑想によって日々自分を振り返ること、自己中心から解放されることが必要、というのは、煩悩から解放されるという意味では、仏教的でもあります。
人の苦悩が自己中心である、という点は、聖書の語るところに共通する点があります。そして、わたしたちも祈りを通して、神に向き合うと同時に、自己中心的な自分と向き合うことになるという点で、参考になるのではないかと考えてご紹介しました。
一方、わたしたちは自分の内側だけに向かう瞑想によってはなかなか自己中心からは解放されません。むしろ祈りによって、解放されるのです。神に向き合い、神の側から自分自身を見つめなおすところから、祈りの答えを聞いていくことができます。

先週は『流されて、ついに』(中島文子著 文芸社)という本を読みました。著者の経験が語られていたノンフィクションです。帯には第80回コスモス文学新人賞(ノンフィクション部門)を受賞、とあります。著者は被差別部落出身で、就職差別、結婚差別を経験していましたが、キリストと出会い救われました。彼女を最初に捕らえたのは、み言葉よりも、祈りでした。一番最初は人に誘われて教会の祈祷会に出たのですが、その時はつまらないところだな、と思っただけでした。聖書の言葉も心にくるものはありませんでした。聖書の奇跡も信じられませんでした。しかし、クリスマスの夜、当時の恋人に振られ、絶望的になっていた時、教会のクリスマス伝道集会のチラシに誘われたのでした。クリスマス集会は終わっていましたが、そこで、自分が結婚差別に苦悩していることを、初めて会った教会の大矢さんという人にうちあけました。誰にも言えなかった苦悩を、大矢さんが祈ってくれました。その言葉が自分の気持ちにしっくりときて、その祈りのあとに、不思議なことに、胸の中にあった怒りや憎しみ、恐怖や不安、孤独や悲しみ、絶望といった気持ちが跡形もなく去ったのでした。聖書が語る罪の問題に向き合いながら、人間の力だけでは取り去ることはできないことが、イエス・キリストによって実現したことを信じて、方向転換できたのです。そして、小さい頃からいわれのない差別をうけて負っていた心の傷も癒されたのでした。人への恐れ、不安、怒りや憎しみだけでなく、妬みやひがみ、特にどうしようもなかった劣等感とひけめがいやされたのです。その重荷が取り払われたのです。
さらに、彼女は、ある礼拝のときに、突如として自分の罪を告白し十字架の前にひれ伏したい思いに包み込まれ祈り、罪を告白したのでした。
その後、様々な奇跡的な出会いなどがあるのですが、そのように主イエスを中心にすることで、自己中心的な思いから解き放たれ、平安を取り戻す道がしめされていました。

本日のイザヤ書は、イスラエルの国に語られていますが、エジプトを頼りとし、強大な軍事力を求め、主を決して尋ね求めない姿が描かれています。これは、私たちの姿とも重ねられます。人はどこかで自分より強いものに頼ったり、理想にあこがれつつ、その理想に支配されるからです。
だからこそ、わたしたちは常にみ言葉に触れ、祈ることを通して、主イエスに触れなければなりません。自分自身の心の傷が癒される必要があるのです。憎しみや怒り、無力さや劣等感からも解放される必要があるのです。主イエスの十字架は、私たちの負うべき傷や痛みをすべて負ってくださったしるしとなっています。神の前に、そのような重荷を負う必要はありません。
そして、主イエスによって癒され、神の国に向かう新しい道に進むことができるのです。

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