2020年8月30日礼拝説教

聖 書

旧約聖書 ヨナ書4章6節 (旧約p1447)

福音書 ルカによる福音書8章11~15節(新約p118)

説 教 「神の畑の実り」  柳谷知之牧師

種まきのたとえ

先週は、今日の聖書箇所の前のところを共に読みましたが、たとえを中心とするよりも、なぜ、神は人々が神の国について悟らないようにされているのか、ということと、そこから、神の裁きとも思われる試練や悲しみを通して、成長し豊かにされることがあることをお伝えしました。

本日は、その「種まきのたとえ」の解き証しがなされているところです。弟子たちが、そのたとえの意味は何か、と尋ねたことに主イエスは答えられました。

改めて、そのたとえについて、ルカの記述をみます。

5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」

農夫はある種をかごから取り出し、風に乗せるかのようにしてばらまきます。そのような蒔き方ですから、種が蒔かれると、ある種は目的の農地とは異なる場所に落ちてしまいます。道端に落ちたり、石地に落ちたり、茨の中に落ちてしまった種があり、それらの種は、十分に成長できず、実を実らすところまでいきませんでした。一方で、良い土地に落ちた種は、最終的に百倍の実を結んだのでした。

種まきのたとえの解き明かし

①悪魔がみ言葉を取り去ってしまう人たち

このようなたとえに対して、主イエスが語られた解き明かしは、次のようになります。

この種は、神の言葉、み言葉である、と。

そして、道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、その後、鳥が食べてしまうのですが、それは悪魔がみ言葉を取り去ってしまうということを意味しています。人々が信じて救われることがないように、悪魔がやってくるのです。ルカによる福音書が書かれた当時(1世紀後半から2世紀にかけて)、教会はユダヤ人からの迫害、ローマ帝国の迫害を経ながらも、ローマ帝国内に浸透しつつあったと考えられています。一方、主イエスの再臨がもうすぐである、と考えられていたものの、その再臨がなかなか来ない、ということに対しても、ルカは一つの答えをしめしています。それは、神が忍耐して救われる人の悔い改めを待っているからであり、その間、キリスト者も忍耐を要して、希望をもって歩むことを進めています。

悪魔が来て、すぐに神の言葉を取り去ってしまう、というのは、神の言葉を聞いても、心に響かない人がいる、という現実を示しています。もっとも、それが本当に悪魔のせいなのかは全く分かりません。

わたしは、牧師の家庭で育ちました。高校生の時に信仰告白をして自覚的にクリスチャンになりましたが、だからといって聖書をすごく読むようになったわけではありませんでした。聖書について興味深く読むことができるようになったのは、大学の時に通っていた聖書研究会でした。それも最初はあまり面白いと思いませんでした。1年なんとか通ったら辞めてしまおうと年度の途中で思うほどでした。しかし、ある聖書の言葉を皆で議論しているときに、良く知っていた聖書の言葉が新しい言葉として響いてくる時があったのです。それは自分でもとても不思議な経験でした。そして、決してまじめでない信徒であったのにもかかわらず、こうして牧師になっている、ということに30年前の自分はどう思うだろうか、とさえ考えるのです。

一方、わたしの高校の友人は、大学に入ってキリスト教系の寮に入って何度か教会に行ったことはある、といいつつも、あまり聖書の言葉が響いた、ということを聞いていません。同じように教会に行っていて学生時代に洗礼を受けた友人もいますが、今は教会からは離れている、と聞いています。

悪魔が来て取り去ってしまう、というのも、傍から見てそう見えるというだけで、実際どうなのかわたしにはよくわかりません。しかし、悪魔が来て取り去ってしまう、と思われるほど、このみ言葉を受け止める、というのは、人の業ではない、ということです。人間の思いがどのようにあっても、それを超えて働く力がある、ということ、そして、み言葉を受け入れる、受け入れない、ということも、人の目でとらえるのではなく、それを超えた大きな神の御業の中でとらえるしかない、ということではないでしょうか。

②み言葉を喜んで受け入れるが、試練に負けてしまう人たち

さて、他の種で石地に落ちた種は、最初は興味を持つけれども、しばらくは信じていても根がないので、試練に遭うと、身を引いてしまう人たちだ、とのこと。これも、教会生活の中でよくあるな、と思わせられます。最初は熱心にみ言葉を学び、教会にも熱心であるけれども、何かあった時に離れてしまう人たちがいる、ということです。

ただ今回、この部分を読みながら、なぜ身を引いてしまうのか、というと、「根がないから」と語られています。根っこがあるかどうか、それは何で決まるのでしょう。わたしは、主イエスがルカの6章48節で言われたことを思い起こします。主イエスは、主の言葉を聞いて行う人たちを、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台をおいて家を建てた人に似ている」と言われました。「地面を深く掘り下げること」と「根を伸ばす」ということが似ているのではないでしょうか。主イエスの言葉そして聖書の言葉は、わかりやすいと思えるものと、よくわからない、実行なんてできないじゃないか、と思えることがあります。しかし、根を生やす、というのは、自分の深みにいたるところにみ言葉をおいておく、ということです。分からない、これは意味がない、といって捨ててしまうのではなく、何の意味があるのか、よくわからないけれど覚えていく、思いめぐらすということが、み言葉を心に留めるということです。それがあるとき、突然わかってくる、立ち上がってくることがあるのです。

他人事として聞けば、いつまでも聖書の言葉、主イエスの言葉はわかってこないところがあります。しかし、自分のこととして、疑問を持ったり、疑いを持ったりする中で、忘れられない言葉が出てくれば、そこで本当のみ言葉との出会い、聖書との出会いということになるのです。

聖書の言葉が言葉だけでなく、出来事となっていくこと、その人の中でかけがえのない一言となるとき、それは根を生やしていく、ということにつながります。そうなると、他の聖書の言葉についても、自分の好みとか、分かるか分からないかで判断しない受け止め方ができるようになってくるのです。そして、根をはやすこと、その時に水気がある(悲しみがある)ということは、心の豊かさにつながります。以前、清水真砂子さんという翻訳家の言葉を聞いているときに、次のような言葉がありました。「本を読むと、心が豊かになるお穏やかな心になる、と言う人がいるけれども、心が豊かになる、というのと、穏やかな心になる、というのは同じではないですね。本を読むと豊かな心になる、というのは、自分の中に魑魅魍魎が住んでいる、ということに気づくことです」と。人を傷つけたり、殺したい気持ちがあることに気づくこと、それが豊かな心だ、というのです。とても深いな、と思わせられたのと同時に、聖書を読むということも同じではないか、と考えさせられました。主イエスの十字架を前に、自分はどこに立っているか、ということ、十字架につけた罪から免れ得ない自分を見出すとき、十字架の出来事は自分のこととして迫ってくるのです。

③誘惑に負けてしまう人たち

次に出てくるのが、茨に負けてしまう種です。み言葉を聞いて、根を生やし芽を出すけれども、茨にふさがれて成長できず、実を実らせることができないのです。それは、思い煩いや富みと快楽にふさがれてしまう、ということです。

思い煩いと富と快楽というのは、意識としては違うことです。

富みや快楽にふさがれてしまう、というのは、この世の様々な誘惑に負けてしまう、ということです。信仰生活よりもお金が儲かる事や楽しいことのほうが人は惹かれるものかもしれません。そうしたことに心を奪われてしまう、あるいは人生のすべてをそちらにかけてしまう、ということが空しい結果をもたらすのです。主は、あなたがたの富のあるところに、あなた方の心もある、と言われました。天に宝を積む、ということもその関係から言われます。信仰の豊かさに気づくとき、そのような誘惑を退けることができます。

一方、思い煩いということは、人生の中での様々な悩みや困難を示します。それが心をふさいでしまって、神のみ言葉が自分の中で成長できなくなってしまうのです。

主イエスは、「思い悩むな。ただ神の国を求めなさい。」(ルカ12:29,30))と言われました。思い悩むとき、人は自分のことだけを見てしまいます。しかし、そこから目を転じて、社会的なところ、また同じような境遇の人に目を向けることで連帯していく道が開かれます。「神の国」とは、神を中心とする交わりであり、他者との連帯に生きることです。そのことをみ言葉から意識することが、茨の成長に負けない信仰ということになるのです。

④実り豊かな種

そして、最後に、主は豊かに実を結んだ種について語ります。ここには、立派な善い心でみ言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結んだ人たち、とあります。これをそのまま聞けば、多くの人は、自分にできることではない、と思ってしまうのではないでしょうか。

まず、立派な善い心でない自分を発見します。また、み言葉を聞き、よく守る、ということは、不可能に思えます。であれば、忍耐したとしても、実を結ばないのではないか、と早々にあきらめの感じが先に立ってしまうのです。

しかし、主は、私たちに不可能なことを語られているのではありません。

良い地とは、立派な善い心、とありますが、主イエスにとって立派な善い心とはなんでしょうか。悪いことを全く考えない立派な心でしょうか。それとも、悪いことを考えたりしたりすることがあっても、悔い改める心でしょうか。主イエスは、罪のない人間はないと考えています。

ルカの18章で、ファリサイ派の人と徴税人を比較して次のように語っています。

ファリサイ派は、「わたしは他の人のように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、この徴税人のようなものでもないことを感謝します」と神殿で祈ります。一方、徴税人は、目を天に上げようともせず、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言って祈りました。神の前に義とされたのは徴税人のほうだ、と語られています。

そこに恵みによって実を結ぶ生き方があります。そうだとすると、み言葉をよく聞き、守る、ということも倫理的正しさを語るのではなく、み言葉をどう受け止めるか、どう守るのか、ということになるでしょう。「守る」という言葉は、保持する、保つ、という意味です。すなわち、神の御言葉をまずは保持するということです。意味が解らないこと、無意味に思える事、矛盾していること、不可能なこと、み言葉は常に私たちに問いかけます。その問いを胸にすること、それが守ることです。種が地中深くに根を生やしていくように、一旦心の中に埋め込まれた種は、いつか必ず目を出すことでしょう。主は、「求めなさい、そうすれば与えられる」(ルカ11:9)と言われています。御言葉を理解するということにおいても、求めれば与えられます。神学を学ぶと、人間が考え付く様々な疑問や問いに応えようとして、多くの神学思想が生まれていることを知ります。みなさん一人ひとりが、教会や聖書について疑問に思うことはどこかで必ず議論されていて、納得できるかどうかは別にしても、今もなお答えが生み出されつつある、というのがキリスト教の世界です。御言葉に対して問いを持つことも含めて、保持する、心に一旦受ける、ということ、そのようなみ言葉との出会いが、やがては多くの実を結ぶことにつながるでしょう。

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