2021年4月25日礼拝説教

聖 書
旧約聖書 ネヘミヤ記2章5節 (旧約p740)
福音書   ヨハネによる福音書11章17-27節(新約p189)

説 教 「ここに希望がある」 柳谷知之

無力さを感じる時

本日のヨハネによる福音書では、主イエスの次の言葉が響いています。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」

教会は、主イエスを信じる群れとして、2000年にもわたってこの世に立てられてきました。主イエスを信じてきた人々は、有名無名を問わず数えきれないほどいます。

しかし、すべての人がこの世での生涯を終えました。わたしたちはそのような人々が天に召され、神の御許に行かれたのだ、と信じています。

ですからここで主イエスが言われた「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という言葉は、肉体的に生きる、ということではないのだな、と感じてしまいます。

霊的に生きる、というのでしょうか。主イエスを信じる者は、この世的な肉体の死があっても終わらない命を生きるのだ、と考えることが自然かもしれません。

今日の場面では、主イエスが愛しておられたラザロという弟子が死んでしまった、ということから始まります。

ラザロは死んでしまって既に4日もたっていたとあります。ラザロの姉妹マルタが主イエスを迎えに来ていいました。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と。

すなわち、もし主イエスが、ラザロが死ぬ前にいてくださったら、病気は癒され、彼は今生きていただろうに、ということです。主イエスが神と共にいる方であり、主イエスの病を癒す奇跡的な力をマルタは信じていたのです。ですから、「あなたがお願いになることは何でも神はかなえてくださると信じています」と言うこともできました。ただし、マルタは、まさか死んだ人をよみがえらせることができるとまでは考えていませんでした。

主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と述べられても、「終わりの日の復活は存じています」と答える他なかったのです。

マルタは主イエスが来られてもなおも悲しんでいたことと思います。またマルタの妹マリアも、家の中にいてじっとしていました。多くの人々が、ラザロが亡くなってしまったので、この姉妹のところにきて慰めていました。

主イエスを前にしても、死は大きな壁として立ちはだかっています。終わりの日の復活を信じていたとしても、今この時に、なぜ自分の兄弟がしななければならなかったのか、そのような思いを持っていたことでしょう。

この後、主イエスは家の中にいたマリアを呼びます。するとマリアもマルタと同じように「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣いたのです。周りにいた人々の中には「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う人もいました。(ヨハネ11:28~37)

主イエスもこの姉妹の悲しみを見て涙を流し、怒りさえ抱きました。主イエスはこのように人の悲しみを自分のことのように感じられる方です。

そして、憤られたのは、マルタもマリアもまた多くの人々もこの死に戸惑い、切ない思いや無力さを感じていたからです。

主は、死んで墓に葬られていたラザロをよみがえらせられたのでした。(ヨハネ11:38~44)

すでに亡くなって4日も経っていたのに、ラザロは布に巻かれたままよみがえったのでした。

主イエスは、マルタやマリアの悲しみに寄り添い、その気持ちに応えられました。さらに、それだけでなく、主が共にいてくださるなら無力では決してないのだ、ということを示されたのです。

ラザロの復活の意味

さて、このラザロの復活のことを見るならば、主イエスが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われたことが実現すると言えるでしょう。

しかし、現実はよみがえったラザロも永遠に生きることはできず、いつの日にか死んでしまいました。なぜ、主イエスはラザロをよみがえらせられたのでしょう。マルタやマリヤの悲しみを癒すためだったのでしょうか?主イエスは、ラザロの病気のことを聞いたとき「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言われました(ヨハネ11:4)。神の栄光のために主はラザロをよみがえらせたのです。第1に、ラザロの復活によって、神は死に対して無力ではなく、死をも支配されていることが現されました。

では、主イエスを信じる者は死んでも生きる、とはどういうことでしょうか?

ラザロの出来事は、多くの人々に印象づけられました。主イエスはラザロのもとに行かれるとき、弟子たちに次のように言われました。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」と。ラザロのよみがえりは弟子たちが信じるためだけではなく、後にラザロの復活のことを伝えられた者が信じるようになるためなのです。ラザロの出来事は、神の出来事として語り伝えられることになり、今、わたしたちは聖書を通して知ることになります。ラザロは、このように神の出来事の中に生きている、ということになります。第二に言えることは、主イエスを信じる者は、すべて神を証し、神の出来事、神の言葉の中に生きるのだ、ということです。

さらに、主イエスは復活を語られます。ラザロは復活させられました。それによって、わたしたちが終わりの日に復活させられるということを明らかにされたのです。信じがたいことかもしれませんが、聖書は、人間はすべて世の終わりの日に復活させられて、生ける者と滅びに至る者に裁かれると告げます(マタイ25:31以下など)。最後の審判というと恐ろしいイメージもありますが、世にあって理不尽な思いをした者たち、苦難に遭った者たちが最後には報われる、ということでもあります。また、自分自身の悪や罪深さもすべて清められ造り変えられるという希望でもあります。その希望なくしては、今を生きることは、むなしいと思えてくることもあるからです。第三に言えることは、神は終わりの日の復活を用意されているということです。

さらに、主イエスを信じる者は、その審きにおいて、余計なものがそぎ落とされ、永遠の命に至るのです。(最後の審判を経て、復活の体をもって生きる、ということが聖書が伝えていることです。その意味で、体を大切なものとして考えています。)

「人の死」を経験すると、悲しさや寂しさだけでなく、むなしさを感じさせられることがあります。あの人が生きた意味はなんだっただろう、と考える時、それは自分にも降りかかってくる問いです。

完璧にできることなどほとんどなく、時には誰かを傷つけるだけだったかもしれない、とネガティブにとらえてしまうこともあります。真面目であればあるほど、そういう思いはぬぐえません。しかし、神は人間の不完全さをよくご存じです。また、わたしたちも自分自身が不完全であることをよく知っているはずです。その私たちが救われる道は、自分の力だけにより頼むのではなく、最後はお任せする以外にありません。

神が死のとげを無力化されました。主イエスは「わたしは復活であり、命である」と言われます。それゆえわたしたちは死に対しても、安心して神にゆだねることができるのです。

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