2021年7月18日 礼拝説教

聖書

旧約聖書 エゼキエル書33章27,28節 (旧約p1351)

福 音 書  ルカによる福音書12章1~3節 (新約p131)

説 教 「器の中身が大切」 柳谷牧師

偽善について

主イエスは、本日の福音書で弟子たちに注意をうながされます。

「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と。

先週のルカによる福音書で、主イエスはファリサイ派の人々や律法の専門家(律法学者)たちを批判しました。その批判は本日の福音書とつながっています。それが偽善です。

主イエスが、彼らの偽善をどのように表現しているのか見てみます。

「実に、あなたがたファリサイ派の人々は、盃や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(ルカ11:39)

「薄荷や芸香などあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしている。」(ルカ11:42)

すなわち、偽善とは、目に見える外側だけ立派に整えて、全く別な中身を持っているということです。

他人には、律法を守り神への従順を説きながら、自分自身は神との真実の交わりに生きる事をおろそかにし、正義を行わず、神の愛をおろそかにしてしまっているのです。

それは、自分が言っていることとしていることが違うというところにも表れます。

主イエスは、律法学者たちを嘆いて言われました。

「人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない。」(ルカ12:46)

「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」

律法学者たちは、人々に律法を守るように命じました。それは本来、神の恵みに応答することでした。しかし、いつの間にか、律法を守ることが神の恵みを保証することに変わってしまいました。律法を守ることができない人たちを罪人とレッテルをはり、彼らは汚れているのだから、交わりをもってはいけない、と説くようになっていました。それは、神の恵みよりも、律法を守らないことで社会的に受ける圧力を強調することになります。これが彼らが人々に負わせている重荷です。さらに、神への愛を説きながら、それが律法を守る事だけを意味するときに、隣人を愛することや正義を行うことに目を向けなくなっているのです。

主イエスが安息日に病気の人々を癒されたときのことです。律法学者やファリサイ派の人々は主イエスを訴える口実を得ようと待ち構えていました。主イエスは言われました。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」

律法学者やファリサイ派の人々は、安息日に仕事をしてはいけない、ということを厳密に守ろうとするあまり、安息日が本来喜びのときであり、祝いの時であることを忘れてしまっていたのです。人が安息日に善をなそうとすることも禁止してしまっていたのでした。それが、知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げている姿でした。

これらの態度は、神への従順を説きながら、かえって神が望んでおられない方向に向かっていたのです。

 

偽善に気をつけるとは

では、そのファリサイ派の人々のパン種に気をつけるとはどういうことでしょうか。

二つのことが考えられると思います。

一つ目は、ファリサイ派が命じることに気をつけなさい、ということです。

神を愛するならば、律法を守らなければならない、という律法主義に気をつけることになります。

もともと律法主義はどこからはじまったのか考えてみると、バビロン捕囚以降になります。バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還した人々は、なぜ神がこのような苦難を選ばれた民に負わせたのだろうか、と考えました。それは、神の戒めに背いたからだと結論づけました。であるとすれば、今後、神の戒めに忠実に生きるほかないと考えたのです。そして、エズラやネヘミヤの時代に、異民族との交わりを絶つようにし、厳格な律法遵守を自ら課すようになったのです。そのような態度が、時には偶像礼拝を強要するギリシャ的文化の国々の支配への抵抗運動にまで発展していきました。社会の中でマイノリティであったユダヤ人が、信仰の戦いをしてその自由を勝ち取っていったのでした。一方、自分たちがある程度の自治を勝ち取るようになると、律法を守ることは、権力を得ることにつながりました。すると、律法を守ることは主流となり、弱い立場を切り捨てる側に立ってしまったのです。それが主イエスが批判された律法主義です。そのような律法主義に全面的に従わないことを主イエスは弟子たちに注意されたのです。むしろ、自分自身の壁を壊し、他者と共に生きることを主は求められるのです。

二つ目に考えられるのは、自分自身が偽善に生きないということです。

しかし、これは本当に可能なのでしょうか。

先週、教団の社会委員会の集会がリモートで行われ、そこで、コロナ禍における社会活動をしている団体の報告をしてもらいました。社会委員会を通して、教団から献金をした諸団体のうち3つの団体から報告がありました。日本キリスト教会札幌豊平教会「手づくり弁当」、東京入管問題を考える会、野宿労働者の人権を守る広島夜回りの会 の代表の方々のお話を伺いました。その中で、広島夜回りの会の方が、自分たちがやっていることは、しょせん偽善でしかないと言う思いがある、と話されました。すると、入管問題を考える会の方も、その考えに賛同する、と言われたのです。どういうことか、というと、野宿者にしても、入管で不当な差別的待遇を受ける人々に対しても、全てを救うことはできない、ということ。そこには、自分の無力さをいつも感じるとのことでした。完全な善には程遠い以上、偽善と言われてもやむを得ないし、偽善でしかないとしても、今このことに取り組まざるを得ないのだ、という思いがあると訴えられていました。目の前に困っている人がいる、助けを求めている人がいる。その時に、主イエスならばどうされただろうか、と問う中から生まれてきた行動だと感じさせられました。行いや行動を誇る姿はみじんもなく大変謙虚だな、と驚かされました。

主イエスが見たファリサイ派の人々の姿は、人々に賞賛されることを望んでいることでした。会堂では上席につくこと、ひろばでは挨拶をされることを求めていました(ルカ11:43)。

人間は矛盾に満ちています。最初は人のためにと純粋な思いに駆られてすることでも、他者から理解されないと認めてほしい、という気持ちが強くなってしまいます。偽善に気をつける、というのは、偽善をなくす、ということではなく、隠れた自分の気持ちが公にされたとしても、それを覚悟していく、ということでしょう。人目には隠されたこともいつかは公にされる、屋根の上で言い広められる、と主は言われます。少なくとも神様の前では隠すことはできないのです。

今はあまり思うことはなくなりましたが、まだ10代後半から20歳にかけてのころ、友人たちの間で「バスに乗っていて席に座っている時に、お年寄りの方が立っているときに、ためらいなく席を譲れるか」ということが話題になりました。周りから「ええかっこしいじゃないか」「偽善者」、思われるのが嫌で立てない、という意見もありました。私もどちらかといえば、人目が気になる方でした。しかし、ある時、友人とバスに乗って座っていた時、杖をついた人が乗って来ました。すると横にいた友人が、さっと席をたって譲ったのでした。その姿に、大人だな、と思ったのと同時に、その友人を「偽善者」などと思う気持ちは一切起こりませんでした。

偽善を避ける、というよりも、善いことも悪いことも、私たちの内にあることはすべて神様の前には知られています。「あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」のです。神様に全てを知られている、という覚悟があれば、恐れることはありません。自分のなすべきことに努めることができます。わたしたちは誰もがその幸いの中にあるのです。

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