2021年10月10日 礼拝説教 聖霊降臨節第21主日

聖書

旧約聖書 エゼキエル39章28・29節(旧約p1362)
28わたしは彼らを国々に捕囚として送ったが、自分の土地に集めて、もはや、かの地には残さない。そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。29 わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と主なる神は言われる。

新約聖書(福音書)ルカによる福音書13章22~30節 (新約p135)
 22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

説 教 「救われる者は少ないか?」柳谷知之牧師

救われる者は少ないのか?

主イエスのところに一人の人が来て、尋ねました。

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか?」

すると、主イエスが答えられますが、この問いに対して、イエスでもノーでもありません。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と。答えはまだ続きますが、「狭い戸口から入るように」と勧められます。「入ろうとしても入れない人が多いのだ」ということで、救いを求めている人は多いが、「入れない人」が多い、と言われるのです。この「入れない人が多い」という答えから、だから「救われない人は多い」と言われていると感じてしまうかもしれませんが、果たしてそれで合っているのかどうか、考えさせられます。

この答えに続いて、主は

「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは」遅い、と言われています。戸が閉まった後で、どんなに戸をたたいて「ご主人様、開けてください」と言っても、戸は開くことがなく「あなたたちのことを知らない」という答えが返ってくるだけである、と言われるのです。

神が一方的にここまで来たら救ってやるが、ここまで来ることができなければ救ってやらないぞ、というのとは少し違うようです。

あくまでも、狭いながらも救いの戸は開かれていて、そこから入ることができる、というイメージがあります。しかし、その戸はいつまでも開いているのではなく、ある時が来れば閉まってしまうのです。それは、主人がすなわち神様がその戸を閉められるのですが、そうして一度閉まってしまえば、もう手遅れだ、ということになります。

では、「狭い門」とはどのようなことでしょうか。そして、救われるとはどういうことでしょうか。

エルサレムに向かう主イエス

そこで、この問答がどのような場面でなされたかを考えてみます。主イエスはエルサレムに向かって進んでいるところでした(22節)。エルサレムは主イエスが十字架につけられる場所です。既に主は、ご自分の受難予告を二度されています(ルカ9:22、9:44)。弟子たちも含めて従って来ていた人々は、皆、主イエスがエルサレムに向かうのは、そこで大きな業を行い、ローマ軍を追い出し、ダビデ王国を再建することだ、と期待していました。人々が救い主(メシア)に期待することは、この世的な救いでした。ローマ軍やヘロデを追い出し、神のみを神とする国を作る事、それはイスラエルの人々が他の民族を支配する道でした。主イエスが示された道は、人々の思いとは全く正反対でした。十字架の道は、すべてのものに仕える道であり、異邦人も含めてすべてのものが罪を赦され、神のもとに集められることが示されます。

「狭い門」は、主のエルサレムへの道に続く門であり、十字架の道への門です。

神は、本来イスラエルの人々が他の民族の頂点に立つことを望まれているのではありません。もともとアブラハムというイスラエルの先祖が選ばれたのは、すべての国民の祝福の源となるためでした(創世記12:2,3)。イスラエルが選ばれたのは、他のどの民よりも信仰深かったからではなく、また優秀だったからではありません。むしろどの民よりも貧弱でありながらも、神の愛のゆえでした(申命記7:8)。滅びゆくしかない一アラム人でありながら神の助けによって約束の地に導かれたのでした(申命記26:5-9)。

主イエスが目指された「神の国」は、神の憐みによって皆が生かされていることを知る世界です。神の憐みによって命を与えられ生かされ、誰にでも神から与えられた使命があるはずです。そして、天職が与えられます(実際に生計を立てるための仕事とは限りません。家族を養ったり、誰かの世話をすることも天職の一つとなりえます)。しかし、人間は傲慢です。自分のすることが、他の人よりも優れていることを目指したり、そうでなければ存在意義がないと思い込んでしまいます。

そのために、自分より下のものを作ろうとしたり、反対にできる人をみては自己嫌悪に陥ってしまうのです。

救われるとは?

自分が救われていない、生きづらいな、と思う時はどのような時でしょうか。

大きく二つがあると思います。

最初に、自分が誰かに対して悪いことをしてしまって、許されない時、居心地が悪くなります。

誰かから非難されたり、自分自身がここに居て良いのだろうか、と思う時です。

前者は、居場所ができない原因が自分自身にある場合、後者、その原因が他者にある場合です。

そして、その双方とも、人間の思い込みがあると思います。

主イエスが、十字架の出来事を通じて、私たちに示されることは、人間の思い込みからの解放です。

自分で自分に責任をとらねばならない、とることができる、という思い込みからの解放です。

実はそこに私たちの救いがあります。

私は以前、二十世紀最大の神学者と呼ばれるカール・バルトという人の言葉に目を開かれた思いをしたことがあります。それは

「生きねばならないと考えているような人は、いのちを根本的に尊敬することはできない」という言葉です。バルトはさらに「命は、ねばならない、というようなものではなく贈り物である」と続けます。すなわち、命は恵み以外のなにものでもないのです。

「命を尊敬する」とは「存在するものへの尊厳」を持つことですし、「自分のように隣人を愛すること」です。それを可能にするのは、水平的な視点ではなく、垂直からの視点、神の視点です。神がどのような人にも命を与え、賜物を与えていてくださっている、その賜物が神の国のために用いられることを信じ、他者と共に生きることができるのです。

一方、いのちに優劣をつける動きが社会にはいつもあります。世の中の役に立たない人は生きている意味がない、という優勢思想が人の心の奥底にあるように思えます。家族の重荷になり、世の役に立たなくなったら生きている意味はない、と自らに言う人もいます。

ある知り合いのSNSには、「ダイバーシティー(多様性)だといって、何もかも許されるというのは違うのではないか」とつぶやかれていました。例えば「挨拶ができない人がいて、その人が会社から帰ったかどうかも分からなくなり、皆で探すということがしょっちゅう起こる、とのこと。それを、あの人は挨拶ができない人だからしょうがないねぇ、でいいのか」というのです。確かに「しょうがない」ということで、コミュニケーションをこちらから放棄することは問題でしょう。しかし、どうしてもそうしたことができない人がいるのも事実です。それを受容しつつ、新しい関係を持っていくことに意義があるのだと考えられます。

そして、恵みによって生かされている以上、与えられた使命に生き、出会った人と関わっていく、ということが、神の国につながり、永遠の命(復活の命)につながるのです。

予期しない全ての者が集められる

 最後に今日の福音書は、ありとあらゆる方角から人々が神の国の宴会につく、と語ります。

今日のエゼキエル書では、イスラエルの民に対してではありますが、苦難の民が神のもとに集められることが語られます。 苦難を受け、弱い者、排除された者たちが、神の国に集められるビジョンがあります。

この社会が捨てた者を神は集めてくださるのです。

その道につづくのが狭い門です。私たちも、自分自身の失敗や負い目や弱さに生きる意味を見失うことがあります。 しかし、その時こそ、狭き門は開かれるのです。

神の招きの中で、赦されつつ使命に生きる道が待っているのです。

(使命はなにも能動的なことだけを指すのではありません。受動的であったとしても、その存在によって神の国が現されることですし、何か特別なことではなく、ただ神のみを信じるという生き方です。)

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