聖 書
旧約聖書 エゼキエル書18章14-17節 (旧約p1321)
福 音 書 ルカによる福音書12章13~21節 (新約p131)
説 教 「神の前に豊かになる」 柳谷牧師
遺産の争い、貪欲の罪
かつて、私の祖母が亡くなった時、多少の土地や遺産があり、母の兄弟たちがそれを分け合っていたのですが、祖母の納骨の時に母に付き合って出席したことを思い起こします。その時に、母の兄の連れ合いと母がちょっとした口論になったことがありました。それが財産についてでしたが、その後、母が「財産なんてないほうがいいわね」としみじみ言っていたことを思い起こします。親の遺産で残された者たちが骨肉の争いをした、などということも身近に伺うこともあります。決して生活に困ったり、お金に困っているということがなくても、遺産を当てにしたり、その配分でもめたりすることがあるのは何故でしょう。
これから先の不安があるからだと思います。私たちの国でも仕事を引退して、夫婦二人で25~30年過ごすためには、2000~3000万円が必要、などと言われています。そのため仕事を辞めることはできず、また何かの財テクをしなければならない、という主張などもあります。また、40~50代の生活の状態を保とうとしているからでしょう。
私たちの根源を支えるのは何?
以上のような現代社会の不安と、今日主イエスが語られている例えには共通することがあります。
主イエスのたとえ話ではある金持ちが登場します。
豊作で倉に納めることができないほどでした。そこで、この金持ちは、倉を新しくして、収穫した穀物や財産などを皆しまえるようにしようとします。そして、心の中で、自分自身に言い聞かせるのです。
「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができた。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ!」と。
ところが神が、この金持ちの命をその日のうちに取り上げてしまうのです。
そして、神は言われます。「愚かな者よ、お前が用意した物はいったい誰のものになるのか?」と。
何年も先まで生きる事ができる穀物や財産を蓄えても、それが自分のために何の役にも立たないではないか、自分のために富を蓄えるものは、このようなものである、と主イエスは言われます。
ここで、聖書の訳を見ていくと、興味深いことがあります。
金持ちは、大きな倉を立て財産を蓄えた後、こう言います。
それは、自分のプシュケー (魂,命)にむかってでした。そして「プシュケーよ、この先何年もの蓄えができた」というのです。さらに、神は「愚かな者よ、今夜、お前のプシュケーは取り上げられる」と。
プシュケーはギリシア語です。ヘブライ語のネフェシュのギリシャ語訳としても用いられます。もともとのネフェシュがどういう意味を持つかというと、魂ということだけでなく、生き物や、食欲のことも意味します。人間の根源を支えるものという意味があります。
その意味で考えると、金持ちは、自分の根源を支えるものが、経済的蓄えによってできると信じています。しかし、神はその思い違いを正されるのです。あなたの根源を支えているのは、神である、と。
また、財産に心奪われている者は、その蓄えの力を本当に生かすことはできないのです。残った財産は、いったい誰のものになるのか、と神は言われます。
この例えを話される時に、主イエスは「人の命は財産によってどうすることもできない」と言われます。
最初にここを読んだ時、「いや現代は、お金があることで最先端の医療を受けることができるし、財産によって人の命はどうにかなるのではないか」と感じました。しかし、よくよく見ていくと、ここで用いられている「命」は、物理的命ではありません。物理的に生きる命については、ギリシア語で「ビオスbios」という言葉が用いられます(それは、バイオテクノロジーというときのバイオ‐という言葉となって私たちにはなじみがあります)。ここでは「ビオス」ではなく、「ゾーエー」という言葉が用いられています。これは「生き生きとした命」と訳すべきもので、「幸福な命」「幸福な存在」といってもいいでしょう。「永遠の命」というときにも、この「ゾーエー」が使われています。「生き生きとした命」は財産があるかどうかに関わらない、財産を持っているかどうかは関係ない、と主イエスは言われているのです。
財産があるがために、骨肉の争いをするような不幸があります。血縁関係だけでなく人間関係が破綻することもあります。財産があるがために、不幸になるという例を私たちは知っています。
お金に依存しない生き方
人の幸せは、財産のあるなしによらないことを身をもって現している方がいます。『74歳、ないのはお金だけ。あとは全部そろってる』に、ミツコさんという牧師が、月7万円の年金で生活をしているという報告があります。公営住宅に入り、花を1本買うのも躊躇することがあるようですが、その1本を買えた時は、本当にうれしい、とのこと。シルバー人材センターを通して家政婦として働き、そこで得た給料を教会への献金にあてているとのこと。7万円の内訳は、住居費6000円、社会保険料4000円、水光熱費8000円、通信費1万円(固定電話、携帯電話)、食費その他4万円です。編集者の方は「何をしていても楽しそうな方なんです。資本主義に毒された私たちとは、根本的な姿勢が違う印象を受けます。そんなところが、コロナ禍もあり、社会のありかたが見直されている今の時代に合っているのではないかと感じました」といって、著作化をすすめ、本の紹介には「人生の豊かさは、使えるお金の量とは関係ない――。それが本に描かれた暮らしぶりから伝わってくる」とありました。クリスチャンとして何を大切にして生きているのか、という観点から読むこともできます。信仰者として、お金に依存しない在り方の一つの例として読むことができましたし、人の幸せは財産ではどうすることもできない、むしろ神への信仰とそこから生まれる人との関わりであることを学びます。
ミツコ牧師は、神によって必要なものはみな与えられていると信じ、感謝して生きています。
分かち合う生き方
このミツコ牧師は、公営住宅の狭い中でも、布団だけは4~5人泊まれるだけ用意しています。それは、災害時に誰かを泊めてあげられるように、とのこと。また、食器も棚一杯に残して、誰かが食事していけるように、と考えています。自分だけのためではなく、他者のことを考えている姿にも共感を覚えます。
一方、他者のために生きるということを押し付けがましく考えてはいません。他者のためであったという思いが強いと、あの人のためにここまでしてやったのに、という気持ちが強くなりますが、結局は自分のためにしたのだ、と思えば、相手に感謝されなくても気にしないでいられる、平安に生きられる、というのです。
そこに、すべてを神にゆだねる姿を見ます。
今日の聖書は、あなたの根源には神がいる、ということと、手にしている財産や賜物を誰と分かち合うのか、という問いがあります。
与えられたものがたとえわずかなものであったとしても、それを他者と共に分かち合うことができるのです。
将来の不安に負けて、他者との間に壁を築いていくのか、それとも心開いて分かち合う生き方をしていくのか、どちらが神の前に豊かになる生き方でしょうか。真の命を、今日の主イエスは問われます。
そして、神の前に豊かになる生き方こそが、わたしたちを不安から解放することが、次の聖書箇所によりはっきりと示されているのです。