説教要点 3月8日「宮を清められる主」

聖 書 ヨエル書2章12~14節 (旧約p1421) ルカによる福音書19章45~48節(新約p148)

説 教 「宮を清められる主」 柳谷知之

◆神殿の境内で行われていた商売

両替-単に通貨を変えるものではない。神殿にふさわしい貨幣に変えるところ。

神殿で献げるお金。通常の貨幣(ローマの貨幣)を用いない。それらは、異邦人が造り用いたもの、日常のもの であり、ユダヤの宗教から見ると汚れているものになる。

そこで、神に対して特別な貨幣を用いる。

しかし、ただで両替をするわけではない。手数料を取る。

その手数料が、商売人たちの糧となり、また場所を提供した祭司たちにも支払われる

→私腹を肥やしていた祭司たちがいた、と考えられる

犠牲の動物―家鳩 山鳩、羊、山羊、牛 などを献げる

 その場合、傷のない動物でなければならない(レビ記23:21)。

 傷がないかどうか、祭司が判断する。犠牲を献げる人が連れてきた動物が傷があるかどうか、祭司が判断して決められる。→神殿で犠牲にふさわしい動物が用意されていれば便利。

 犠牲の動物を売る者たち―神殿に、祭司に、献金することを条件に商売する権利が与えられていた。

これらの商売がなければ、神殿に礼拝に来た者たちが困る。神殿の礼拝のための利便性を欠く。

礼拝者は、ユダヤ地方だけでなく、現代でいうアフリカ、ヨーロッパ、イラク、イランのほうからも来ていた(散らされたユダヤ人、回収した異邦人など)

これらの商売が礼拝者の必要を満たすものでもあった。

◆主イエスの怒り

しかし、主イエスは、その商売で私腹を肥やしていた人たちに向かう。

「商売をしていた人々を追い出された」→
「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」(マルコ11:15、16)
「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」(マタイ21:12)
「神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:14-16)

 ルカ以外の福音書においては、主イエスの怒りの激しさ(暴力的ともとれるような行為)が示されている。

「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(46節) 

 イザヤ56章7節を引用して、祈り(礼拝)を中心にしているのか、と問われる主イエス。

 神殿は、神との交わりの場。

 神がおられる場―というと誤解がある。神は、一つの神殿に留まる方、神殿に納まる方ではない(歴代誌下2:5)。すべての場におられる神。

「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」(エレミヤ29:13,14)

◆祈りの家とは

 祈り―神との交わり、神との親密な場

 礼拝―祈り み言葉が語られて導かれる祈り

  み言葉―中心は聖書、説教にあるが、讃美の言葉、祈りの言葉を通しても神は語りかけている。(前奏、後奏のような奏楽にも、本来、言葉がある。)

 わたしたちが何を求めて礼拝に集うのか。

 強盗の巣にしてはいないか、改めて問われる。

 強盗―人のものを自分のもののようにすること。

    礼拝や教会を自分の思い、人間の思いで満たしてしまうことは、ここで語られる「強盗の巣」にしてしまっていることになる。

 教会を「キリストの思いがなるところ、キリストの言葉で満ちるようにしなければならない」

 礼拝に集中できるようにすること

 日常の雑事があり、人の関係、将来の不安などで心が占められることもある。

 礼拝の場において、何かに心奪われている自分を見つめ、そこから解き放たれる道がある。

 主イエスは、この祈りの家にすべての民を招かれている。
  (商売をするものも、祭司や律法学者、ファリサイ派の人々も招かれている。)

◆聖霊の住まいとしての神殿を考えた時に
 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

 私たちの体が神の霊(聖霊)の宿る場であり、神殿である。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12:1) 

 自分自身を自分自身を神に献げることが礼拝。
 自分自身を、神以外のものに明け渡してはいないか。
 自分自身を強盗の巣にしてはいないだろうか。

 主イエスが共にいてくださり、わたしたちを神のものとしてくださっている。
 悪の力から守り導いてくださっている。→キリストの言葉、神の言葉で私たち自身を満たしていこう。日々の祈り、み言葉に親しむことを通して…

 
 

 

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