2022年2月13日礼拝説教

聖 書
 旧約聖書  イザヤ書58章6~8節 (旧約p1157)
 福 音 書  ルカによる福音書18章18~30節 (新約p144)

説 教 「何が欠けているのか」 柳谷知之牧師

ある議員との問答
 主イエスに対してある議員が問いかけました。当時のユダヤ社会には、サンヘドリン(最高法院)と呼ばれる議会があり、祭司や律法学者、ファリサイ派など71人で構成されていました。議員はユダヤ社会の中で尊敬され、政治的にも力を持つ人たちでした。この議員もその一人でしたが、主イエスの教えや行動に関心を持ち、尋ねたのです。

「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」

主イエスは答えられますが、ご自分に向けられた呼びかけに反応します。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と。主イエスご自身の謙虚さを伺うとともに、この議員が人を分け隔てしているのではないか、と忠告をするのです。すなわち、神の前では誰もが等しい存在であること、神のみを神とすることを思い起こさせるのです。

主は続けて答えられます。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」これは十戒の後半の部分に相当します。神に救われた者として守る人間の倫理が現されています。それは当然、ユダヤの議員であれば知っているものです。

議員は「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と言います。議員は祭司、律法学者、ファリサイ派の何れかの者でしたから当然自信をもってこのように答えることができました。律法を遵守することに命を賭けていました。永遠の命を受け継ぐことができるという確信を得ようとしていたのです(しかし、彼はどこかでこれでいいのだろうか、と思うところがあったからこそ主イエスに質問したのでしょう。主イエスを試そうとしたと解釈する人もいるようですが、もしそうだったら彼は主イエスの答えに悲しむよりも怒って帰って行ったに違いありません)。

これに対して主イエスは「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言いました。

主イエスは、律法の本質を語ります。十戒の人間に対する部分を守っていると言うこの議員に欠けていることが一つある、と言われます。十戒の後半で語られていることは、隣人を愛することです。それは、自分のようにあなたの隣人を愛せよ、ということです。すなわち、神に愛されているように他者を愛せよ、ということになります。人は誰でも行いによって義とされるのではなく、神の憐みによって義とされているのです。そのことを知るならば、自らを誇るのではなく、他者に対して憐みの心を持つことに導かれます。主がこの議員に対して欠けていると指摘したのは、財産に心奪われ、貧しい者たちに対する憐みを忘れていることでした。

本日のイザヤ書においても、神が望まれることは「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどくこと、すなわち虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。飢えた人にパンを分かち与え、貧しい人を家に招き入れたり、裸の人に衣を着せること」であると示されています。貧しい人と富を分かち合うことは、神が望まれていることです。そうして天に宝を積むことになるのです。

しかし、この議員は主の忠告に従うことはできませんでした。悲しみながら去ってしまったのです。多くの財産を持っていたからでした。この議員はじめファリサイ派の人々は、財産があることは、神の恵みのしるしですし、神に省みられているしるしとして考えていました。一方、貧しい人たちは、神に見放されているから貧しいままなのだ、と考え、交わりをしようとはしませんでした。主イエスは、そのような議員の心のうちにある傲慢さを指摘されたのです。

人間にはできないことも、神にはできる
 主イエスがこの議員に言われたことは大変厳しいものです。「全財産を売り払って、貧しい人たちに分けてやる」ということはなかなかできません。この議員が悲しんで立ち去った気持ちが分からないでもありません。私たちでも全財産を売り払うということは躊躇することでしょう。
では、金持ちが神の国に入ること、救われることは不可能なのでしょうか。
主イエスがは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」とまで言われます。まったく不可能に思えます。当時の人々も「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。しかし、主イエスは、「不可能」とは言われず「難しい」と言われたのです。さらに「人間にはできないことも、神にはできる」と言われます。「難しい」ということは、人にはできなくても、神にはできることなのです。

何が欠けているのか
 主イエスが、この悲しみ立ち去った議員に求めていたことはどういうことだったのでしょう。
まず悲しみ立ち去らないことです。
主の言葉は時々厳しい、こんなことは不可能と思われることもあります。しかし、それはわたしたち人間が自らを誇らないためです。この議員は、人を分け隔てし、神の律法を守っていると誇れる人でした。しかし、律法を守るということを完全にできる人間はいません。まずそこに立つことです。

そして、「主よ、全財産を売り払って貧しい人たちに分け与えることができないわたしを憐れんでください」と主に憐みを願い求めることができたのではないでしょうか。おそらくこの議員のプライドがそれを許さなかったのでしょう。しかし、マルコによる福音書に描かれている同じような出来事で、富める青年(ルカでは議員)に対して、主は慈しんで見つめられています。主の憐み深さを信じるほかないのです。

主に従う道
 その先に、「主に従う道」が与えられます。
ペトロは言います。
「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と。

このように言うペトロは全てを捨てて従ってきた、と本当に言えるのでしょうか?
ペトロならびにほかの弟子たちは、確かに仕事を捨て家族を捨て主イエスの旅に同行してきました。「私に従いなさい」という呼びかけに応えてきました。しかし、エルサレムに行く途上で、互いに「誰が一番偉いか」とか、主イエスがメシアとして世の王として君臨するときには、自分の地位を高めてほしい、と願うようなところがありました。全ての物を捨てた、と言っても、自分を捨てることはできませんでした。
主が求めておられるのは、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、主に従うことです。
それは一長一短にできることではありません。
主が言われるように、貧しい人たちと共に生きることも求められるでしょう。
自分の財産のぎりぎりをささげることも必要とされるでしょう。
その都度、自分自身の限界を知り、完全には従い得ない自分自身を発見するのです。
弟子たちや悲しみ立ち去ざるをえないこの議員と自分自身を重ねる思いをしていくのです。
主に従おうとして、従いきれない自分を発見していく、そこで打ち砕かれつつ、それでも主の導きがあります。
人間には不可能でも、神にはできる世界があります。
十字架に死に、神の憐みに支えられた新しい命に生きる道があるのです。

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