2022年2月6日 降誕節第7主日・受難節前第4主日礼拝

聖書
 旧約聖書 ゼカリヤ書8章12節
新約聖書 ルカによる福音書18章15~17節
説教 「神の国に入るとは」 柳谷知之 牧師

幼子を退けない主イエス
 主イエスのところには大勢の人々が集まってきましたが、主イエスの言葉(教え)を聞きたい人もいれば、奇跡を見たい人もいました。また、主イエスが数々の病気の人を癒されたので、病気を癒されたい、と願って来る人たちもいました。

そして、今日の聖書によると、子どもを連れた人たちもやって来たのです。幼子だけでなく乳飲み子までも連れて来たのです。それは主イエスに触れていただくためでした。主イエスに触れていただくということは、主イエスに祝福していただく、ということですし、子どもたちが健やかに成長するために祝福をいただく、ということも意味していました。それだけでなく、病気の子どもや障害を持った子どもたちも含まれていたことでしょう。主イエスが病気を癒す力があることを知って、主に触れていただくことで、癒してほしい、と願ったのです。

しかし、ここで主イエスの弟子たちが立ちはだかりました。これらの子どもたちそして子連れの親たちは、主イエスの話を聞きに集まってきた人たちの邪魔になる、と考えたに違いありません。子どもたちが主イエスを邪魔しないように、弟子たちは「ここから先は子どもが来てよい場所ではない」と遮ったのでした。

それにたいして、主イエスは子どもたちを呼び寄せました。乳飲み子たちを呼び寄せたとありますので、その親たちも含めてそばに呼んだのでした。

主イエスは言われます。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」
子どもであろうと大人であろうと、主イエスのところに来たい人は来て良いのですが、子どもは特別であることが分かります。子どもたちに「神の国はこのような者たちのものである」と言われるのです。そして「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われるのです。

このような者たち
 主イエスは、乳飲み子たちを指して「神の国はこのような者たちのものである」と言われています。

「このような者」とはどのような人たちのことでしょう。

考えられることは2つあります。特にルカでは、乳飲み子が強調されています。(他の平行箇所 マタイ19:13-15、マルコ10:13-16では「子ども」となっています。)

  • 乳飲み子は、自分一人で行きたいところに行けるものではありません。親や保護者の力がどうしても必要です。「このような者」というのは、自分の力を頼みとできない人たちということです。保護者に頼らざるを得ないものたち、それは、神との関係における人間の姿と重なります。
  • 乳飲み子たち、子どもたちは自分の意志をなかなかくみ取ってもらえない存在です。社会の中で子どもはいつも後回しになります。今は、子育て支援ということで子どものことに関して注目されているように見えますが、子どもそのものに対する支援というよりも、子どもを持つ親の支援のためであり、それは子どもが大切だからというよりも少子化がすすむと社会は持続しないという危機感によるものです。子ども支援といいながら、子どもたちに意見を聞くということはまずないように見えます。そのように、この世界で無視されている者、軽んじられている者たち、として「このような者」が考えられます。

そして、「このような者」が神の国を受け入れるのです。寄る辺なき者、軽んじられている者は、神の国を待ち望み、神の国を受け入れることができるのです。

神の国に入る
 そして、神の国を受け入れる者が、神の国に入ることができるのです。では、神の国に入る、ということはどういうことでしょうか。
当時のユダヤの社会では、神の国は、死後の世界というのではなく、この世界に神の救いがもたらされるところと考えられていました。そして、彼らは来るべきメシアによって、神の国であるイスラエル王国が復活し、神が全てを支配する世界そしてイスラエルの民が諸国のリーダーとして立てられる世界を待ち望んでいました。しかし、主イエスが宣言された神の国は地上での王国ではありません。「神が共にいる」という世界です。
このようなことを思いめぐらしていると、インターネット上であるビデオに出会いました。

カフェで一人でいる人たちに、子どもたちが話しかけます。
「あなたの友達はどこにいるの?」「どうして髪の毛が白いの?」とか、いろいろと質問をしながら話しかけていきます。そして、「みんな誰とでもしゃべるべきよ」「世界中の人が大きなパーティーをしてみんなが友達になるべきよ」という子どもたちの声があるのです。

大人は、知っている人にしか話しかけようとはしません。知らない人に声をかけることはめったにしません。でも、子どもたちは違いました。そして、私たちならなかなかしないような質問を遠慮なくしていきます。

「いくら持っているの?」とか「どうして一人なの?」とか。

しかし、質問されたほうも、子どもだからしかたない、という気持ちなのか、そのような質問にややためらいながらも答えていきます。そして子どもたちとの会話を通して、たのし気になっていくのです。「あなたのおかげで今日一日がいい日になったわ」という人もいました。

このような子どもたちの姿を見ながら、「神の国」というのは誰もが共に生きる世界であり、そのような世界の実現のためには、子どものようになると言う必要があることが示されています。
子どもたちには、まだ何かに対してブレーキはなく、素直な感情表現が許されています。
その意味では、既成の概念にとらわれず、自由だと言えるでしょう。また、子どもたちには未来がある、と思います。「子どものようである」というのは、「壁を作らず自由であること」「可能性があること」も含まれているのでしょう。そして、そのような良い意味での「こどもらしさ」が「神の国」を造っていくのではないでしょうか。「子どものようである」とは、この世界において「おかしいな」「変だな」と思うことにも、発言できる力を持つことにもつながります。

神の子として
 わたしたちはもう子どもではない、そんな自由な発想や、可能性に満ちているわけではない、と思われる方もいることでしょう。
しかし、聖書によれば、神は主イエスを通して私たち一人一人を、「子よ」と呼んでくださるのです。
主を信じる誰もが「神の子」です。それは、神の憐みによって、義とされているということです。
主イエスは、私たちをあらゆる恐れから解き放ち、自由をもたらしてくださいました。また、罪を赦され、わたしたちが互いに赦しあう道を示されました。死という壁も壊され、永遠の命に生きる可能性を明らかにされました。
神に選ばれた人は、若い人であろうと、年老いた人であろうと、共に神の国のために働く可能性をもっています。
「神の国」で、わたしたちは罪赦され、あらゆる束縛から解放された自由な自分自身を発見していくことができるのです。その自由は主のために、神の国の福音のために用いられていくのです。

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