2021年5月23日 礼拝説教 聖霊降臨祭(ペンテコステ)

聖書

旧約聖書 ヨエル書3章1節 (旧約p1425)

使 徒 書 使徒言行録2章1~14節 (新約p213)

説 教 「新しく確かな霊」 柳谷知之

五旬祭

主イエスが天に上げられて、弟子たちはエルサレムに留まりました。そして、彼らはいエルサレムに着くと、家の上の家に上がって熱心に祈りました。そして、五旬祭の日がくると、一同は一つになって心を合わせて祈っていたのでした。何を祈っていたのか、というと主イエスが約束された高いところからの力に覆われる(ルカ24:49)ことだったと思います。その力が何かははっきりとは分からなかったことでしょうが、主イエスを信頼して、私たちに力を与えてください、と祈っていたのではないでしょうか。

ところで、五旬祭とは、もともとはイスラエルの祭りで、七週の祭りと呼ばれていたものです。「あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる」(レビ記23:15,16)とあるとおりです。過越しの祭りの翌日の安息日から数えて50日を数えた後が五旬祭となるのです。過越しの祭りが旧約聖書ではこの日に、モーセたちイスラエルの民がエジプトを出て律法を授かった日となっています(出エジプト19:1-13)。

ですから、イスラエルの民にとってこの日は重要な祭りで、ユダヤの地域外からも大勢のイスラエルの民がエルサレムに集まってきていたのでした。

聖霊降臨

このような中で、一つになって祈っている弟子たちに聖霊が降りました。

聖霊が降るときには、激しい風が吹いてくるような音がしました。その音が家中に響きました。

ところで、家という言葉をギリシア語ではオイコスといいますが、家に留まる、住むという意味から、オイクメネーという言葉が生まれています。このオイクメネーという言葉は、人の共通の生活圏を意味し、さらに世界を現す言葉となっています。弟子たちが一つの家に留まっていた、その家中に激しい風が吹いてくるような音が響いた、というのですから、それは単に一つの家の中のことだけを現しているのではないのです。すなわち、聖霊が降る音が、当時、生活を共にする人々の間に響いた、ということです。ですから、五旬祭のためにエルサレムに集まってきていた人々が、その物音に驚いて集まって来たのです。

大きな物音の後で、炎のような舌が分かれ分かれに現れて弟子たち一人一人の上に留まりました。

これがペンテコステにおこった聖霊です。聖霊は炎のようだったのです。それは舌すなわち言葉でした。弟子たちの心を熱くする言葉だったのです。その言葉に促されて、弟子たちは、霊の導きのままに他の国々の言葉で話し始めました。

その言葉が、当時の世界中から集まってきていた人々の心に届きました。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と驚き怪しみました。彼らは、地中海世界のあらゆるところから集まってきていました。今私たちが聞いて分かる地域は、メソポタミア、エジプト、リビア地方、ローマ、アラビアといった地名でしょう。それだけでも、ラテン語、ギリシャ語、アラビア語、ペルシャ語、アラム語など多様な言語が思い浮かびます。聖霊によって、言葉が異なる人たちにも、神の不思議な業すなわち主イエスの出来事が伝えられたのでした。驚き怪しみ、とまどいながら「一体何が起こったのだろう」と口々に言っていたのです。

彼らが特に怪しんだのは、話をしている人たちが皆ガリラヤの人々であったからです。エルサレムから見たら辺境の地でした。特別な教育も受けていないような人が、自分たちの言葉以外の外国の言葉を話すようになるとはとても信じられないことだったからです。

そして、そのような弟子たちの姿を見て、彼らは酒に酔っているだけなのだ、と結論を出す人たちもいました。人は、自分に都合のよいことしか聞こうとしない、と言われます。ここでも人間は、不思議な出来事を体験しても、それを認めようとはせず、自分の納得のいく出来事に留めようとするのでした。

自分自身に語られた言葉があったとしても、それを受け止められない、ということにもなります。

文字は殺すが、霊は生かす

さて、今回、この聖書箇所を読みながら、なぜ五旬祭において、聖霊が降ったのだろうか、と考えさせられています。先に申し上げましたように、もともと五旬祭は、モーセが律法を授かった時を祝うものでした。その律法を授かった時に、弟子たちが聖霊を受けたということは、聖霊の働きによって律法を新しくとらえることの大切さが語られているのではないでしょうか。

パウロは「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」(Ⅱコリント3:6)と述べています。

主イエスは神の国を宣べ伝えました。そして、律法主義と闘われました。そのため社会の秩序を乱す者であると考えられ、十字架刑で殺されてしまったのです。しかし、その主イエスが復活されました。主イエスは死をこえて、新しい命、新しい生き方を示されたのです。弟子たちはこの主イエスの福音を伝えました。その神の国の福音とは、当時の律法主義を否定することでした。律法主義は、律法を大切にするといいながら、文字に囚われ、神との生き生きとした関係を失ってしまうものです。それは一人一人に目に見えない神との関係があることを否定するものです。現代においては、このような律法主義は、成果主義や自己責任論として現れています。そして、人にレッテルを貼ることにもなります。

神は「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」と言われる方です。それに対して人間は、勝手に神が恵まれる方はこういう人のことだ、と解釈してしまい、神の自由さを制限してしまうのです。神の赦しの自由さを認めようとしないのです。

主イエスは、律法を否定されたのではありません。むしろ律法の完成者であると言われました(マタイ5:17わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。)。

聖霊は、神との関係、人との関係を取り戻させるものです。聖霊によって人は、神を「父よ、アッバ」と呼ぶことができるようになるのです。神は冷たい血の通わない方ではなく、私たちを憐れまれる方です。その神の姿に気づくならば、み言葉を自分に語られた言葉として受け止められるでしょう。

聖霊の働き(多様性と統一性)

そして、聖霊の働きを認めるということは、神の自由さを認めることであり、多様性を認めることにつながります。聖霊に満たされた弟子たちは、霊が語らせるままにあらゆる国々の言葉を話したからです。

旧約聖書では、バベルの塔の物語によって、なぜ人間の社会に多種多様な言語があるか、を伝えます。人間は、自分が神のようになろうとして高い塔を建設します。しかし、神はそれを許されませんでした。そして人間の言葉をバラバラにされたのです(創世記11章1~9)。それは神の罰というよりも、人間が思い上がって一つになるよりも、多様な存在を認めるようにという配慮として考えられます。そして、今、聖霊の働きによって神との関係を取り戻した者は、あらゆる人々との関係を築く力が与えられます。

弟子たちは、ユダヤ人や異邦人の区別なく福音を伝えようとしました。その聖霊は、ガリラヤの人のように、世にあって無学な者、力ない者を選びます。特別な人だけを選ぶことはしません。丁度今日聞きましたヨエル書が語るように、老人も若者も男性にも女性にも神の霊が注がれるのです。

これからの時代は多様性がキーワードとなっていると言われます。しかし、多様性を認めたら皆わがままになるだけではないか、という人も時々います。だからこそ神との関係が必要です。神との関係によって自己を絶対化するのではなく、自分は相対化される道が与えられます。他者を、神から与えられた他者として受け止められるようになるでしょう。

聖霊は、自分自身を変え、他者との関係も変える働きを持ちます。風のように自由に、私たちの間を吹き抜けていくのです。

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