2022年1月2日 礼拝説教 降誕節第2主日 新年礼拝

聖 書
旧約聖書
 ゼカリヤ書8章7,8節 (旧約p1487)
福 音 書  ルカによる福音書2章41~52節 (新約p104)

説 教 「心に納める」柳谷牧師

新年明けましておめでとうございます。

新しい年の恵みをお祈りいたします。

教会暦のクリスマス

さて、教会の暦の中では、今はクリスマスの時期、降誕節になります。伝統的な教会暦では、1月6日までがクリスマスの期間となります。キリスト教の始まりの時期に、ローマを中心とする西方教会では12月25日を主の降誕日として祝っていましたが、東方ではエジプトの暦の冬至にあたる1月6日にキリストの受洗を祝っていました。やがて、キリストの誕生,東方の博士たちの来訪が祝われ、主イエスの栄光が公に現れた日エピファニーとなりました。西方と東方で一緒にクリスマスを祝うようになったとき、12月25日から1月6日までをクリスマスの期間としたのです。その意味で考えると、世の中のクリスマスは終わってしまいましたが、教会のクリスマスはまだ続いているのです。そして、正式には1月6日にクリスマスの飾り付けも外すことになります。また、本日も主のご降誕のことを覚えつつ、聖書に聴きたいと考えています。

主イエスは12歳―神殿での出来事

さて、本日はルカによる福音書から、主イエスが12歳になったこと、両親と一緒に過ぎ越しの祭りを祝うためエルサレム神殿に行った時のことを聞きました。過越しの祭りとは、モーセがエジプトを脱したことを記念する祭りで、1週間祝うことになっていました。ユダヤの暦は太陰暦ですので、私たちの暦では3月か4月になり、イースターの時期と重なります。

その過ぎ越し祭を主イエスの両親(マリアとヨセフ)は毎年祝っていましたしその都度エルサレムに旅をしていたのです。主イエスが12歳になった時も同様でした。この旅にはガリラヤから同じ思いを持つ人たち、親類、縁者たちが一緒になっていきました。過越しの祭りの1週間が終わり帰る道において、両親は主イエスがいないことに気づきました。一日分旅した時だったのです。そんなことがあるだろうか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、両親だけでなく旅の仲間で行動していたこと、主イエスがもう12歳であり、当時としては大人として扱われていたことなどから、両親がいちいち自分の息子が旅の群れの中にいるかどうか確認していなかったのだろうと考えられます。さすがに夕暮れになって主イエスのことを確認しようとしたところ、いないことが分かったのです。

両親は大慌てで、エルサレムまで戻りました。一直線に戻ったのではなく、その道の途中でも自分の子がいないかどうか確かめながら戻っていったことと思われます。そうして三日かかってエルサレム神殿に行ってみると、そこに自分の子がいたのを発見したのでした。律法の学者たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていたのでした。両親はびっくりして、母マリアが主イエスに言いました。「どうして、私たちにこんなことをしたのですか。お父さんも私も大変心配してあなたを探したのですよ」と。

すると主イエスは「なぜ探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然とどうして思わなかったのですか」と言うのです。両親からすれば、こんなにも心配してきたのに、その言いぐさは何だ、と思ったことでしょう。なぜなら両親はこの言葉の意味を理解しなかったからです。しかし、マリアはこの出来事を心に納めたのでした。

心に納める~思いめぐらすこと

マリアは、主イエスの言葉の意味を理解できませんでした。彼らにしたら、息子のわがままに付き合わされた、ということになるでしょう。ナザレからエルサレムまで1週間ぐらいかけて旅していたことと考えられますので、そのうちの半分ぐらいを主イエスを探すために使ったのですから、両親はため息をつきながら帰路についていたのかもしれません。そんな思いの中でも、マリアはこれらの出来事を心に留めておいたのです。それは、大切にしまっておく、ということです。

この言葉を考える時に思い起こされるのが、生まれたばかりの主イエスのところに羊飼いたちが来たときのことです。マリアは羊飼いの話を不思議に思いつつ、心に納めて思いめぐらしたのでした(ルカ2:19)。マリアは、このように理解できないこと、不思議なことを忘れてしまうのではなく、心に納めたのです。心に納めるとは、注意深く継続的に保つことです。主が誕生されたときのことも、主が12歳でエルサレム神殿にいた時のことも、マリアは忘れることなく心に留めておいたのです。それは、主イエスが神の国を宣べ伝えるときも、また十字架につけられるときにも、思い起こしていたことでしょう。不都合に思える出来事や不可解な出来事をどのように考えるか、という時に、一旦心に納めることが大切です。また、主イエスが誕生されたことも、思いめぐらしていた、とあります。マリアは主イエスに関して、心に納め思いめぐらしていたことでしょう。

思いめぐらす

この思いめぐらすということについて、思い煩うことと区別されて次のように表現されます。

思い煩うということは、自分の思いにとらわれて物事を見る事

思いめぐらすというのは、いろいろな角度から物事を見てみること。

これらの出来事の中にも

そして、私たちも今日の出来事を思いめぐらします。

主イエスがいなくなって三日後に見つかった、ということは主の復活を思い起こさせます。またそれは神殿であり、学者たちの真ん中にいた、ということは、主が神と共にいて私たちの真ん中にいてくださることが示されているでしょう。

主イエスは、決して両親をないがしろにしたわけではありません。

その後、両親に仕えたのでした。律法が語るように、父母を敬って大切にしたのです。

最後に「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」のですが、そのようにして主が人として生きる中で、心身共に成長し、霊に満たされたのです。人の成長においても、心と体、そして霊(交わり)が大切であることが示されているのです。

新しい一年がはじまりました。今年も、思いがけない出来事や私たちには理解できないことが多々あることと思います。

それらを拒絶していくのではなく、一旦は心に納めること、そして思いめぐらすことができれば、と願います。

また、一人一人、体と心を十分用いつつ、霊的に健康であるようにと願います。

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