2021年10月17日礼拝説教 聖霊降臨節第22主日

聖 書

旧約聖書 エレミヤ25章4節 (旧約p1223)
4主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった。
新約聖書(福音書)ルカによる福音書13章31~35節 (新約p136)
 31 ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」32 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。33 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。34 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。35 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

説 教 「今日も明日も働く主イエス」柳谷知之牧師

ヘロデが主を殺そうとしている…?

主イエスのもとに、ファリサイ派の人たちがやってきて、忠告します。

「ヘロデがあなたを殺そうとしています。ここから立ち去ってください」と。

ここで、わたしは少し疑問に思うことが出てきます。一つは、聖書ではファリサイ派の人たちは主イエスと対立していて、主イエスを機会があれば殺そうと願っていたのではないか、このファリサイ派の人たちはどういう人たちだろうか、と。二つ目は、ヘロデ(ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス)は、主イエスに一目会いたいと願っていた(ルカ9:9、23:8)、という記述もありますので、ヘロデが主イエスを殺そうとしている、というのは本当だろうか、と。

これらに関しては、あまり本質的な疑問ではないかもしれません。ただし、ルカのストーリーの中でどう調和させるのがよいのか、と立ち止まるのです。ルカの23章の記述を見ると、ヘロデが主イエスを殺そうとしていた、ということをルカのストーリーの中では想定していないようにわたしは思います。そこで、いくつかのことが考えられます。

一つは、ファリサイ派の人々も一様ではない、ということです。ファリサイ派は、当時のユダヤの宗教で最も大衆的であり、多数でした。サドカイ派の祭司長たちと結託して主イエスを殺そうとする人たちもいたでしょうが、主イエスの言葉や行いに感銘を受け、尊敬している人たちもいたのです。ヘロデが主のいのちを狙っている(ファリサイ派の人々の勘違いだとしても)、ということを親切心で教えた、という考えです。二つ目は、ヘロデは、主イエスを殺そうとしたのではなく、主に会いたいだけだったので、それをファリサイ派の人々が故意に捻じ曲げて主に伝え、主を脅かしている、ということです。ここでのファリサイ派の人々は、主イエスがエルサレムに来ないでほしかったのではないか、そこでなんとかエルサレムに来ないようにしたかった、ということです。

どちらにしても、主イエスは脅されています。主に敵対する者たちがいるのです。

脅しに屈することなく…

ファリサイ派の人たちの忠告に対して、主はこう言われます。

「行って、あの狐に『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」

ここで「狐」は、注解書によれば「ヘロデ」を指す、ということになりますが、先ほどの2番目の解釈のように、ファリサイ派の人々が主イエスを追い出そうとしていた、ということになると、それはヘロデに対してではなく、主の前に来た人々のリーダーを指すと思われます。すなわち、「あなたたちを遣わした者たちに言いなさい」と。「狐」は、ギリシャ神話などでも狡猾な動物とされていましたので、狡猾な策を練っているような人を「狐」と呼んだのでしょう。

主イエスは、こうした脅しに屈することなく、たとえ主を殺そうとする者がいても、ご自分に与えられた使命に生きようとしているのです。「悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」と言われます。三日目に終える、ということで、これは三日目のよみがえりを思い起こさせます。すなわち、十字架の道が重ねられます。

主が負われる苦難とは…。十字架の意義。

主が自分の道を進まねばならない、と言われるのは、十字架の道を進まねばならない、ということです。そこで、改めて十字架とは何か、主が負われる苦難とはどういうことだろうか、と考えてみます。

主は、ご自分が、今日も明日も悪霊を追い出すこと、病気をいやされることを語ります。その完成は、十字架と復活です。そうすると、主イエスの十字架は悪霊を追い出し、病をいやすことになります。

主イエスの十字架は、人類の罪の赦しのためである、と神学的に語られることがあります。信仰の告白においても、十字架を罪の赦しのため、罪の贖いのためとしています。

罪の赦しの具体的内容が、悪霊を追い出すこと、病をいやすことだ、と言ってもよいでしょう。

悪霊を追い出す

悪霊なんて存在するのか、と思われる方もいるかもしれません。

悪霊の本質は、神から私たちを引き離す力です。富が悪霊の働きをすることもあるでしょう。仕事や能力、プライドが神から私たちを引き離すものとなってしまうこともあります。

自らの存在を保つために、誰かの命を奪ってしまうようなときにも、悪霊が働いていると考えてよいでしょう。敵意や悪意は悪霊から来るものです。

主の十字架は、悪霊を追い出すためでした。わたしたちを悪霊の支配から解き放ち、神の愛の支配のもとに引き寄せる意義があります。主を十字架につけたこの世的力は、権力者たちの支配欲や秩序を保ちたいという思いでした。また、一般の人々は社会の指導者に扇動され、「イエスを十字架につけろ」と叫びました。弟子たちも自分を守るために主イエスを見捨ててしまいました。人間の自己中心性や、大勢に従ってしまう甚だしい悪意はない大衆の姿は、悪霊に支配されているのです。そこで主の十字架は、神のために自分を捨て、孤独のうちにも神の御心を行う道を示したのです。主の十字架を見るたびに、わたしたちは、自分たちの恐れや欺瞞性、自己中心的な思いを越えていく道が示されています。強い自分ではなく、弱くなさけない自分を発見し、神以外に頼れる方がないことを知るからです。

病をいやす

十字架は、病をいやすものです。究極的な病は、「死に至る病」です。「死に至る病」は、死んだらすべて終わり、死んだら一切が無駄である、と思ってしまうことです。主の十字架と復活が死を超え、新しい命に生きる希望を示します。肉体の死をもたらす病はあります。しかし、それで人の存在やいのちが終わってしまうのではありません。死んでもなお生きるいのちがあることを主の十字架は示します。

ですから、主の働きの究極的なこととして、悪霊を追い出すことと病をいやすことは神の国の宣教そのものなのです。主は神から与えられた使命を果たすため、ひたすら突き進み、十字架の道を歩まれるのです。

今も明日も私たちの間に働いてくださる主イエス

続けて、主は、預言者たちの働きとご自分のことを重ねられ嘆かれます。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ!」

神は何度も預言者を遣わされ、めんどりがヒナを集めるように、イスラエルの民を集めようとされたのです。しかし、イスラエルの人々は、預言者を排斥し、打ち殺してきました。主イエスもその預言者のように殺されようとしていますが、なおイスラエルの民のことを悲しまれているのです。預言者を廃する者は、自分の力により頼み、神に頼ることができません。そのような人々に対して「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言う時まで、わたし(主イエス)を見ることがない、と語られるのです。わたしを見ることがない、とは、主イエスを知ることがない、主の福音、救いを見ることがない、ということです。

「主の名によって来られる方に祝福があるように」と言う時について、二通りの解釈があります。

主イエスがエルサレムに迎えられたとき、歓迎した人々が「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」と叫びました(ルカ19:38)。このことを指して考えると、頑な心の権力者たちや人々は、主イエスがエルサレムに入るまでは救われることがない、という意味になります。

一方、これは再び主イエスが来られるとき、この世の終わりの時を指すのだ、と解釈することもできます。主を殺した者たち、預言者を殺した者たちは、世の終わりの神の裁きの時まで、主イエスを見ることはできないのです。このように語ることで、主イエスを殺す側に立つのか、殺される側に立つのか、問われるのです。

何れにしても、その時、主の十字架に向き合うもの、自分自身の命や名誉やプライドよりも大切なことがあることに気づけるか、主は私たちに問いつつ、悪霊を追い出され、病をいやされるのです。

主がわたしたちと共にいてくださり、今も明日も私たちの間に働いてくださっているのです。

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