2022年3月20日礼拝説教 受難節第3主日

聖 書

旧約聖書  エレミヤ書7章11節 (旧約p1188)

福 音 書  ルカによる福音書20章1~8節 (新約p148)

説 教 「主イエスの権威」  柳谷知之牧師

宮清めの出来事

主イエスはいよいよエルサレムに入城されました。そして、エルサレム神殿に行き、いわゆる「宮清め」をしました(ルカ19:45~48)。神殿での礼拝や祭儀に必要なものを売っている人々を追い出しました。両替商や犠牲の動物である牛や羊、鳩などを売っている人たちを追い出しました(マタイ21:12、マルコ11:15、ヨハネ2:13参照)。これらの商売は、神殿に礼拝しに来た人々にとって必要なものでした。外国から来るユダヤ人たちがユダヤの献金のために通貨をユダヤのものに替えるところが必要です。犠牲の動物が売っている場所があるので、犠牲にふさわしい傷のない動物を都合良く手に入れることができます。しかし、主イエスの目には、神の思いではなく、人間の欲望で満ちていると映りました。便が良い、都合がよく、効率が良いことが必ずしも神に喜ばれることではない、と言えますし、そのために商売をする人々は、人々の敬虔な気持ちを商売のために利用している、ということになるからです。神殿に入るのは、商売をするためであってはなりません。人の思いを実現する場所ではありません。神を礼拝するためです。それは、神に祈り讃美するためであり、神の言葉を聴くことが目的となるということです。ですから、主イエスは「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』」と言われるのです。まず第1に、神殿の境内にいる人々がすべて神に心を向けているかどうかを問われるのです。

*ルカによる福音書19章45~48節については、2020年3月8日に礼拝説教をしている。

主イエスを陥れようとする人々

さて、そのような主イエスの態度、行動を見て、主を殺そうとする人々が現れます。祭司長や律法学者そして長老と呼ばれた人々でした。彼らは主イエスを非難して言いました。

「何の権威でこのようなことをしているのか。私たちに言いなさい」と。

「その権威を与えたのは誰か」と。

これらの質問は、主イエスを陥れるためでした。

すなわち、もし主イエスが「わたしは神から与えられた権威でこれらのことを行った」と言えば、律法学者たちは「お前は自分を神と等しい者にしているのではないか。それは神を冒涜している」と訴えたでしょう。

また、それとは逆に「わたしは、自分自身の権威や人の権威によってこれらのことを行っている」と言うならば、「神の権威によらずに神殿を自分のもののようにしている」と訴えたに違いありません。

そのように主イエスがどのように答えたとしても、祭司長や律法学者たちは、主イエスを訴え捕らえるチャンスとなったのです。

なお、ここで祭司長や律法学者たちが協働して主イエスを陥れようとしています。祭司長たちは神殿礼拝を中心とするサドカイ派に属し、律法学者たちは、会堂(シナゴーグ)を中心に礼拝をしていたファリサイ派であったと考えられます。二つの派閥は互いに相容れぬ面もありましたが、両者の利害が一致して、主イエスを捕らえて殺そうとしていたのです。

何の権威によるのか

ところが、主イエスにとって絶体絶命かと思われる状況で、主の知恵が勝りました。

主は、直接彼らの問いに答えずに、次のように質問しかえします。

「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか?」

すると祭司長たちは答えに窮してしまいました。

なぜなら、彼は洗礼者ヨハネを排除していたからです。洗礼者ヨハネは、大勢の人々を集め、ヨルダン川で洗礼を授けていました。ファリサイ派やサドカイ派のリーダーたちにも「蝮の子らよ」と呼びかけ、悔い改めを迫りました。「あなたたちも悔い改めなければ滅びる」と宣言していたのです。

それゆえ、ファリサイ派や祭司長たちは、洗礼者ヨハネは世の中の秩序を乱すものである、見過ごすわけにはいかない、と思い、洗礼者ヨハネを信じようとはしませんでした。

彼らは主イエスの問いに対して次のように考えました。

「『ヨハネの洗礼が天からのものだ』と答えるなら、イエスは『ではなぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。一方、『人からのものだ』と答えると、『ヨハネを信じていた民衆が我々に歯向かって、石を投げて打ち殺してしまうかもしれない』と」

彼らはそこで「分かりません」と答えたのです。

すると、主イエスは「それなら、わたしも何の権威でこのようなことをするのか、言うまい」と答えて、窮地を脱しました。

「分からない」という答えに潜むもの

さて、主の知恵が敵対する人々の策略に勝ったわけですが、敵対する人々の「分からない」という答えに引っかかります。

わたしたちも実際に何かの問題について、自分でも考えていない場合「分からない」と答えざるを得ないことがあります。また、どんなに知識を深めても知り得ないことが多々あります。自分は知っている、というよりも、分からない、と答えた方が誠実であり、謙虚であると言えることがあります。また、語り得ぬことの前には沈黙せざるを得ないこともあります。

しかし、主イエスが問われるのは、ヨハネの権威が誰からのものだったのか、またそれに続く主イエスの権威はどこから来ていると考えているのか、というもので、信仰的な態度を問うものです。

律法学者たちは、このような問いに向き合おうとはしませんでした。答えればどうしても自分たちの不利になると考えて、保留したのです。すなわち「分からない」ということで、自分自身のしてきたことに向き合おうとはせず、逃げるのです。ここには真実を見出そうとする態度はありません。

主イエスの問いに真摯に向き合い、「ヨハネの洗礼は天からのものだった」と答えるならば、主は「なぜ、彼を信じなかったのか」と問われると同時に、「悔い改めなさい」と言われたことでしょう。また「ヨハネの洗礼は人からのものだった」と答えるならば、民衆は、宗教的リーダーたちを問い詰め、暴力沙汰にも発展したかもしれませんが、リーダーたちは自分が信じる道には誠実であったと言えるでしょう。主が嫌われるのは、その場を繕い、神の目よりも人の目を気にすることではないでしょうか。

主と出会う

これらの問答を通して、主は決して祭司長や律法学者たちを排除したのではない、と考えます。機転を利かして窮地から逃れた、というだけでなく、また彼らの策略にはめられなかった、というだけではない姿を見ることができます。

主の問いは、真実に向き合わせようという方向を持っています。

かつてペトロが主イエスに対する信仰を言い表したことがありました。

人々が主イエスを「洗礼者ヨハネだ」とか「エリヤだ」「預言者だ」と言っている中で、主は弟子たちに問われます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」。するとペトロが「神からのメシアです」と答えました。(ルカによる福音書9章18~20節)

今も主は私たちに問われます。

「私の権威はどこから来たのか」と。

この問いに向き合うとき、わたしたちは主イエスと出会うことができます。自分自身の弱さや罪に向き合いながらも、それを赦され、新しく生きるように促す主の道を歩むことができるのです。主と共に十字架の道を歩むことができるのです。

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