2020年5月24日 礼拝説教

聖書
旧約聖書 申命記23章25~26節 (旧約p317) 
福 音 書 ルカによる福音書6章1~5節 (新約p111) 
説  教 「律法の本質」  

はじめに
 先週、わたしたちは、主イエスが語られる「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならない」というたとえを聞きました。その際、あまり触れることができませんでしたが、主イエスによる新しい喜びの知らせ(福音)は、決して旧約聖書と対立するものではないのです。主イエスの福音によって、旧約聖書を見ることから、旧約聖書に隠されていたと思われるような新しい知らせを聞くことができるからです。
 本日の福音書は、新しいぶどう酒である福音との関係で、神様を礼拝すること、安息日を守るとはどういうことか、聞くことができます。

人の畑で麦の穂を摘む
 ある日、主イエスと弟子たちは、麦畑に入りました。その日は、安息日でした。彼らは、よほど空腹だったのでしょう。麦畑に入って、麦の穂を摘み、手でもんで食べました。すると、それを見ていたファリサイ派の人々が、安息日にしてはならないことをしている、と非難したのです。それは、どういうことでしょうか。安息日であるかどうかに関わらず、人の畑に入って作物を食べるのはいけないことではないでしょうか。しかし、本日、聞きました申命記は語っています。隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまで食べてもよいのです。麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいのです。ただし、持って帰ることはできません。
 これは、貧しい人たち、お腹を空かせた人たちにたいする配慮です。その配慮は、貧しい人が可哀想だから、ということからではなく、自分たちが、エジプトで奴隷であったこと、寄留の民であったことから来ています。奴隷から解放された神の民であるイスラエルの中にあっては、たとえそれが寄留の民、よそ者とされている人々であっても、飢えて死ぬなどと言うことがあってはならないからです。十分食べることが出来ること 食べることに事欠かないことが、神の民の共同体すなわち神の国にとって大切なことが分かります。

 かつて、沖縄の知事選の応援演説で、俳優の菅原文太(1933-2014年)さんが、翁長雄志(おなが たけし)知事候補を応援して次のように言いました。
 「政治の役割は二つあります。国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これは最も大事です。絶対に戦争をしないこと」(2014年11月1日)

 イスラエルの共同体は、そのように人々を飢えさせてはならない、という規定を持っていたのです。そのことの関連では、次のような規定も想い起こされます。
 「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記19:9-10 他参考 レビ記23:22 申命記24:19)
 畑の持ち主の立場になると、それでよいのでしょうか。勝手に作物が人に食べられたりするのですから、そんなことをすればせっかく作物を作っても自分たちが飢えてしまうのではないか、と。
 しかし、すべては、神から与えられたものであり、神は、人間に必要なものを必要な分だけきちんと与えてくださっているのです。イスラエルの民は、40年間荒れ野でさまよったのちに、約束の土地カナンに入ったのですが、神は、マナと呼ばれる食べ物で人々を養われました。人々は、マナを集めましたが、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはなく、それぞれが必要な分を集めることができました(出エジプト16:17‐18)。出エジプトの経験は、イスラエルの共同体の神との関係の土台になっているのです。

安息日に禁じられている行為
 さて、隣人の畑から好きなだけ食べてよいのだ、とすると、それがなぜ安息日に禁止されているのでしょうか。
 わたしは経験ありませんが、わたしよりも年配の方で次のような経験を聞きました。小さいころ、麦畑に入って、麦の穂を摘んで、出て麦の粒を手のひらにのせて、もう片方の手でこするようにして、殻を外して食べた、とのことでした。主イエスの弟子たちもそのようにして麦を食べていたのです。しかし、そのように麦を摘んで、麦の殻と麦の実を分けるのは、刈り入れと脱穀の作業をすることになります。用意されたものを食べるだけでしたら問題はないのですが、刈り入れや脱穀の仕事は安息日には禁止されていたのです。
 ですから、ファリサイ派のある人々は「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言ったのです。

聖別されたパンをダビデに与えたアビメレク
 すると主イエスは、聖書が語る故事を語りました。
 ダビデがまだ王になる前、サウル王に命を狙われ逃亡したときのことでした。ダビデは、祭司アビメレクの所に行って、食べ物を求めました。すると、アビメレクのところには、聖別されたパンしかありませんでした。丁度、焼き立てのパンと取り換えたところで、神への供え物として献げたパンが主の前から取り下げられていたのです。アビメレクは、女性を遠ざけているなら、と言ってダビデに渡したのです(サムエル記上21;1-7)。聖別されたパンは、本来は祭司たちが食べるものでした(レビ24:9)。しかし、ダビデの熱心な願いと、アビメレクの機転でダビデに手渡されたのです。アビメレクは、聖別されたパンでありながら、目の前のダビデが空腹でいることを心に留めたのです。そして、このことで律法を破った罪を問われることはなかったのです。 

人の子は安息日の主
 主イエスは、ダビデとアビメレクの出来事を引き合いに出して、さらに語りました。「人の子は安息日の主である。」と。
 「人の子」とは、主イエスのことです。すなわち、安息日は、主イエスが主人である、主イエスが安息日の中心です。
 もともと、安息日はモーセの十戒に規定され、あらゆる仕事を休まなければならないものとされていました。それは、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたことを覚え、喜び祝うためでもありました。奴隷には休みがなかったからです。

一方、安息日については、聖書の最初に語られています。
「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記2:2-3)
 安息日は、祝福されて聖別されたのです。祝福すなわち喜びがあり、そして、その日が他の日と別な意味合いをもって取り分けられたのです。

 創世記の最初の天地創造の物語は、紀元前6世紀のバビロン捕囚と言われる時代に書かれました。国を失ったイスラエルの人々は、世界のすべてを神が創造され支配されている、ということを思い起こし、自分たちの罪を悔い改めるとともに、神に希望をおいたのでした。
 しかし、後の時代に、安息日にしてはいけない仕事を細かく定め、厳格に守るようになっていったのです。ファリサイ派の一部の人たちは、安息日はじめ律法を厳格に守ることが神の御心に適っている、と考えていました。神に逆らっているつもりは全くありませんでした。しかし、それが神の御心から外れてしまっていたのです。そして、このようなファリサイ派の人々の姿は、私たちの姿と無縁ではないでしょう。キリスト教の世界でも何度も律法主義的な信仰、自分の力を頼みとしてしまう信仰が生まれてきているからです。

 安息日の主は、主イエスである、と言われる時、わたしたちは自分たちが立ち帰るところを示されます。主イエスは、律法を守ることができない人々、安息日を守ることができない人々と共にありました。それは、誰もが神のもとに平等である、罪人であることを示されたのです。
 誰もが神のもとで罪人であり、平等であるからこそ、主イエス・キリストの十字架のゆえに赦され、共に生きることができるのです。

 コロナウィルス関連でも、礼拝を守ることが難しい状況があります。感染者が多発している地域では、特にそうです。わたしたちの教会でも、自粛の期間を経て、礼拝を守ることができる恵みを再確認しています。礼拝に出ることのできない思いや、礼拝を中止せざるを得ない苦渋の思いを知ることができます。さらに、このことを通して、普段礼拝に出ることができない方々ともつながる機会とできたら、と思います。

 「人の子は安息日の主である」とき、わたしたちには、どこでどのように礼拝をしていようと、主イエスと共にある喜び、主を中心としてすべての人がつながる喜びがあるのです。

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