2022年2月27日礼拝説教

聖書
 旧約聖書 アモス書2章6-7節 (旧約p1430)
福 音 書  ルカによる福音書18章35~43節 (新約p145)

説 教 「主イエスの憐み」 柳谷知之牧師

エリコに近づく
 主イエスはエルサレムに向かう途上です。エリコという町に近づきました。ガリラヤからエルサレムに向かう途中にエリコがありますが、この町は、大昔にヨシュアが率いるイスラエルの民が滅ぼした町としても知られています。このエリコは海抜マイナス258mで、世界で最も低い町とのことです。主イエスが、世界で最も低い場所を通られる、ということも象徴的です。主イエスは、わたしたちの最も低い場所を通られるからです。

主への叫び
 主イエスが、エリコに近づいているその道端に目の見えない人が物乞いをして座っていました。一方、主イエスが来るというので、大勢の人々が道を通っていくのを、この盲人は耳や振動で感じ取りました。
そして、通っていく人に尋ねました。「これは何事ですか?」と。「ナザレのイエスが通られる」という答えがありました。
盲人は、主イエスのうわさを聞いていました。自分の目を見えるようにしてくれるかもしれない、そう思うと思わず叫びました。
主イエスがどこにいるのか、正確には分かりません。しかし、近くにいることは確かなようです。主イエスに聞こえるように、大声で「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と。
しかし、周りの人々は、「うるさい」「邪魔だ」と言って、彼をだまらせようとしました
それでも、盲人は叫ぶのを止めませんでした。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。とうとうその声が、主イエスに届きました。主イエスは、立ち止まり、「盲人を自分のところに連れて来なさい」と弟子の一人に命じます。その盲人が主イエスのそばに連れて来られました。

何をしてほしいのか、何がしたいのか。
 主イエスは、この盲人に問われます。

「何をしてほしいのか」と。

盲人は、何度も叫んでいました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」

確かに主はこの盲人を憐れまれ、立ち止まられ、盲人を呼び寄せました。物乞いせざるを得ない盲人の様子に心を寄せます。また人々にさえぎられても叫ばざるを得ない盲人の境遇に関心を寄せ、共にいようとしてくださるのです。

しかし、主はあえて「何をしてほしいのか」と尋ねられます。

この盲人は救われたい、目が見えるようになりたい、という望みを持っているだろうとわたしたちは推測できます。主イエスもそのように見ていたことでしょう。しかし、本人が本当に何を主に期待されるのか、言葉でじかに聞こうとされるのです。

この盲人の叫びは祈りです。奇跡を行い、病を癒すといううわさの主イエスが自分のいる場所を通り過ぎようとされている。そのことを知って叫ばざるを得ない、それほどまでに追い詰められ、自分ではどうしようもない状況になっているのです。「憐れんでください」という叫びは、教会の伝統的な祈り「キリエ・エレイソン」(ラテン語で 「主よ、憐みたまえ」)に通じます。その祈り、叫びに応えて、主の目が祈る者に注がれます。

そこで、祈る者は、自分自身の主体性を問われるのです。自分は何をしたいのか、何をしてほしいのか、どう助けてほしいのか、を思いめぐらし、向き合うのです。なぜなら、自分自身が助けを求めていない時、どんなに周囲から助けがあったとしても、それは余計なおせっかいとしか感じられず、うっとうしく、邪魔なものでしかありません。
神は、わたしたちの心の求めをご存知ですが、私たちは何とか自分で解決したい、他人に迷惑をかけたくない、と願い、本当の必要なことに蓋をしてしまうことがあります。
主イエスの問い「何をしてほしいのか」は、そんなわたしたちの心の壁を取り除き、心の奥底で自分が本当に求めていることに向き合うようにさせるのです。

見えるようになりたい
 「主よ、見えるようになりたいのです。」と盲人は答えました。
はっきりと自分の求めを現すことができました。

この盲人は、道端で物乞いをしていました。生活に必要なものを恵んでもらっていたのですが、物乞いをするというのは、他の人に求める、願うということです。その場しのぎのことをなんとか恵んでもらうことを願っていましたが、主の前にたって「見えるようになること」を望みます。これは「視界を取り戻す」ということです。

「見えるようになる」というのは、象徴的でもあります。わたしたちは両方の目で見ているように思っていますが、全く見ていないことがあります。聞いているようで聞いていないことが多々あります。同じように、心で感じるべきことを感じていないこと、考えるべきことを考えていないことが多々あります。それらは、すべて見えていない状態、見えないでいることになります。しかし、神の言葉は、わたしたちの目を開かせます。見えるようにさせるのです。それは自由になるということでもあります。

あなたの信仰があなたを救った
 主イエスは、この盲人に「見えるようになれ」と言われました。さらに「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。
神は旧約時代から一貫して、弱い者と共にいてくださいます。今日のアモス書においても、貧しい者が靴一足の値段で売られてしまうことを赦されない方です。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態でいる時、その苦難の叫びやうめきに神は応えられ、それが壮大な出エジプトの出来事につながりました。一方、イスラエルの人々は自由になったものの、困難があると「エジプトは良かった」と懐かしみました。安定した生活になると神を忘れて他の神々に仕えたり、自分の力に頼るようになってしまいました。

その都度、神は人間に「立ち帰れ」と呼びかけ、招いてくださいます。
人間は、神の呼びかけに応えて、悔い改めざるを得ません。悔い改めは、神の側に向きを変えることです。
「信仰」とはそのように常に自分を捨て、神により頼む姿勢であり方向性です。

盲人は、人々が遮るにも関わらず、叫び続けました。主イエス以外に他に頼れる方はいなかったからだと言うことも言えます。その「信仰」「信頼」が人を救うのです。

神への讃美
 盲人は、たちまち見えるようになりました。そして、神をほめたたえて、主イエスに従って行きました。
また、そのことによって、それを見ていた人々も神を讃美したのでした。

盲人の「ほめたたえる」は、「神に栄光を帰す」ことです。盲人は癒されたことで、神の栄光を讃えました。その姿が証となり、人々も神への讃美に導かれます。

「救われたこと」すなわち神の力によって「本来的な自分になること」は、人の視界を広げ自由にします。わたしたちが神にあって自由であること、それが神の栄光を現すことになります。誰もが、死や病気への恐れ、将来に対する不安がないとは言い切れないでしょう。しかし、誰もが神の御手のうちにあるのです。十字架の主イエスも見捨てられたようでいて御手のうちにあったのです。それゆえに、あらゆる恐れから自由にされるのです。主の言葉によって自由にされている、そこに神の栄光をあらわす道があります。自由にされているからこそ、主イエスの言葉に従うのです。また、その姿を見て、人々が神を讃美することに招かれるのです。

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