2020年5月17日礼拝説教

礼拝の式文はこちらから(讃美歌なども示しています)。
聖書 

 旧約聖書 申命記10章15~18節(旧約p298) 
 福音書  ルカによる福音書5章33~39節  (新約p111)
説  教 「新しいぶどう酒を飲む」

 本日の福音書で、主イエスが語られる「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」という言葉は、わたしにとってある思い出と共に想い起こされます。また、個人的なところからはいってしまいます。

 大学1年生の終わりでした。大学の男声合唱団の合宿が盛岡でありました。帰りに、数名で遠野が好きな先輩が紹介してくれた南部曲がり屋と呼ばれる農家の建物を使った民宿に泊まることになりました。茅葺屋根で、土間のある趣のある民宿で、囲炉裏にあたりながら過ごしました。河童伝説のある遠野の街を自転車で巡りました。その後、その中の二人が、ついでに柳谷の家に行きたい、というのです。
 遠野から釜石に出て、三陸鉄道で大船渡まで行きました。大船渡教会の一室に泊まることになったのですが、母が丁度夜の聖書研究の時だから、泊まるならそれに出てもらうからね、というのです。内心「え~! やだな」って気持ちだったのですが、その友人たちに告げると、こともなく「いいよ」という返事。友人たちが宿泊した時の、聖書研究の箇所が、今日の福音書でした。そのうちの一人はミッション系の学校を出ていたこともあり、その後も、あの聖書箇所は面白かったと言って、「新しいぶどう酒」というのが、何か我々の合言葉のようになったのでした。その友人は神戸出身でトップテナーとして素晴らしい歌い手でした。しかし、大学卒業後疎遠になり、やがてガンでなくなった、という話を聞きました。

 わたしにとっては、牧師の父のいつもの話としか思えていなかった聖書研究の話が、友人を惹きつけていたことは確かでした。また、もしその友人に会えたなら、その時のことをまた聞きたい、と思っていたのですが、それが叶わなくなっています。それだけに、これらのことが今もなお私にある種のノスタルジックな思い出となっているのです。

 その聖書が、どのような意味を持っているか、どんなふうに語られたのか、ということはあまり記憶になくても、その時の状況が想い起こされることがあるのです。

 そして、しばらく皆で集まる礼拝を休んでいると、なおさら礼拝というのも、そのような風景や記憶を伴っている、と思わせられます。それは案外礼拝の大切なところなのではないでしょうか。

 弟子たちもまた、復活の主イエスに出会うとき、かつて過ごした日々をまた想い起こし、共に食事をしたことなども語り合ったのではないでしょうか。

 そして、礼拝で、皆で讃美し祈り、み言葉を聞く。その時に、一緒にいることはとてもかけがえのないことだと思います。そこで、何気なく過ぎていく時も、あとから思い出されると、忘れられない一瞬、その時にしかなかったひと時だったということがあるのです。

 先週、わたしたちには大変ショックな出来事がありました。山で発見された身元不明の遺体がTさんだった、という報道があったからです。すでに、先週の日曜日にはそうではないか、という話にはなっていたのですが、いよいよそれが決定的となったのが火曜日でした。

 今、このようにまた皆で集まる礼拝が再開されました。コロナウィルスに気を付けながらも、礼拝ができることがうれしいのですが、しかし、確実にいないメンバーがいる、もうここに帰ってこない人がいる、ということが、どうにもせつないのです。何人かの方からTさんのことについてお電話をいただきました。「先生、悔しいね」と言ってくださる方もいました。「神様、どうして」という気持ちを表された方もいます。そして、私自身の中にも「どうして?」という気持ちを隠すことができません。

 そのような気持ちの中で、今日の聖書に向き合いました。

 ファリサイ派の人々は断食をしているのに、また、洗礼者ヨハネの弟子たちも断食をしているのに、主イエスとその弟子たちは断食をしていない、ということで人々から非難されています。断食をするということは、ユダヤの社会の中で大変大切なことでした。年6回の断食の機会があり、特に贖罪日とよばれる日が大切でした。ユダヤの暦では7月1日ですが、これは太陰暦では9月から10月になります。その日、人々は罪の贖いのための犠牲を献げますが、他に苦行をすることとなります。その苦行の一つが断食でした。断食は悔い改めのしるしでした(ヨエル書2:12,ヨナ書3:5-7)。荒布をまとい、灰をかぶったり、灰の上に座したりしていました。さらに、主イエスの時代には、断食は週に二回行われていた、とのことです。一方、洗礼者ヨハネの共同体も荒れ野に住み、質素に苦行をして生活していました。主イエスは、そのような苦行を人前でひけらかすな、と言われましたが、同時に人に気づかれないように断食をするように勧めています(マタイ6:16)。主イエスも宣教のはじめに荒れ野で断食をされました。ですから、断食を全く否定してはいません。古代のキリスト者は、復活祭(イースター)を迎える前のレント(受難節)の期間には断食をしていました。
 しかし、ここでは主イエスは、婚礼に例えて断食をすることはない、と語られているのです。花婿がいるときに断食をさせることはないだろう、と言われました。すなわち、主イエスと共にいるとき、それは喜びの時であり、悲しみや苦行の時ではない、ということです。ただし、花婿が取り去られる時が来る、そのときは断食するだろう、と言われたのです。
 さらに、新しい服、新しいぶどう酒のたとえが語られています。
 新しい服から布をきりとって、古い衣服に継ぎ当てする人はありません。新しい服も古い服もだめになってしまうからです。また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる人もいないのです。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものなのです。

 断食との関連で語られることを考えると、主イエスが共にいる時代は、新しい時なのだ、ということになります。また、その新しい時、新しい考え方は、喜びの時であり、悲しみや苦行の時ではない、ということになります。

 その喜びの知らせは、主イエスによってもたらされたのです。わたしたちが、福音と呼んでいるものです。すなわち、主イエスの十字架を通して、私たちは罪が赦されているということです。また、それによって、神の子とされる、ということです。

 ユダヤ社会では、罪の赦しのために犠牲を捧げ、断食をしていたのですが、わたしたちはもはやそのような犠牲を捧げる必要はないのです。

 ですから、新しい喜びの知らせに対して、古い契約や古い考え方を合わせることはできません。わたしたちは救いを待つ者ではなく、救いの知らせを聞いた者、そして、救われた者なのです。

 ただ、救いを表す罪の赦しの喜びに至るには、罪の自覚の問題があります。

 このことについては、私自身もいつも問われます。本当にこういう理解でよいのか、私自身本当に罪を理解しているのか、と問われるのです。

 キリスト教のこうした教義について、皮肉をこめて、キリスト教では、一度下げてから上げる。地獄に突き落としてから上げるなどと言われることもあります。そこには、一度下げる必要はないではないか、人間は十分素晴らしいのだ、という考え方や、現代人はすでに貶められている。これ以上貶める必要があるか、というのです。罪の自覚の問題では、自己卑下や罪悪感と重ねられます。しかし、それもふさわしい罪の認識ではないように思えます。

 徹底した罪の自覚ということは、一つは人間の小ささの自覚であります。一方、それだけであるならば、人は生きている意味を持たない、と結論付けてしまうことがあるでしょう。宇宙の大きさの中で、小さな自分。大河の一滴にしかすぎない。しかし、その小さな自分でありながら、神の赦しの中にあり、神が目を留めてくださっているというところに生きる価値があるのです。そして、神の赦しの中にある、ということあるいは先週申し上げたように、生かされているという感覚ではないでしょうか。

 主イエスにある喜びとは、この生かされている喜びのうちに生きる、ということです。そこでは、今を生きるしかありません。過去のことにすがったり、後悔する生き方から解放されるからです。自分に期待し、他者に期待する生き方から解放されるのです。むしろ、神から何を期待されているのか、という問いに向き合うことになるのです。

 新しい服、新しいぶどう酒は、そのように生かされている喜び、罪の赦しの喜びを表します。そして、それを受ける側は、その喜びにふさわしい器を持つのです。自分が何に期待しているか、ということではなく、神から何を期待されているのか、人生から何を求められているのか、という考え方の転換に至ることにもなるのです。

 一方、この主イエスのたとえをずっと考えていると少し疑問がわいてきました。
 多くの解説書は、誰でも古いものを好んでしまう。新しいものは拒絶される、というように読んでいるのですが、いかがでしょうか?

 やはり古いワインのほうが極上だ、という思いがあるでしょう。

 ですから、新しいぶどう酒と古いぶどう酒のどちらがよいか、ということをのべているのではないのではないでしょうか。
 新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなくてはなりません。しかし、古く熟成したぶどう酒も格別なものです。新しいものには新しい味わいがあり、古いものには古いものの味わいがある、と通常なら考えます。このたとえにそのところまで求めるものではないのかもしれませんが、わたしは、今回のTさんのことを想い起こします。
 Tさんは昨年3月終わりぐらいからこの教会に来始めたのですが、7月に転会されたときに書かれた文章をあらためて読みました。自分の犯した罪の問題と向き合っておられました。愚かなことをした、と何度か言われていたことも聞いています。それは、ある意味、彼の中で傷として残っているものでしょう。新しい傷には、新しい言葉が、新しい救いの言葉、出来事が必要です。そして、彼は昨年から松本の地で希望をもって新しい生活を始めました。4月29日がお誕生日でした。その誕生カードの返信に「主の恵みと交わりに感謝感謝の日々が続いています。寂しくないと言えば嘘になりますが、おかげさまで充実した日々を送ることができています。」とありました。喜びの新しい生活をされていたのではないでしょうか。
 たった1年のお付き合いでした。教会の様々な活動に加わってくださいました。新しい出会いには、過去からその人を見るのではなく、新しい考え方や見方が伴います。新しい出会いや新しい喜びは、年月を経て熟成し、豊かなものになっていくのではないか、と思われるのです。
 主イエスとの出会いも、またその福音も、洗礼を受けたときがピークではありません。その時の新しさからまた年月を経て、熟成されたぶどう酒のようになっていく。そんなふうにも読めるのではないでしょうか。新しい出会いにあるみずみずしさ、またそれに伴う痛ましいことがあるとしても、やがて神の恵みの中で熟成し、味わい深いものとなる、と思えるのです。その古いぶどう酒を飲むとき、新しいことを思い起こさない。そこに傷が癒える方向も現されているように思えたのです。そして、そこにわたしたちは希望をもった歩みが示されているのではないでしょうか。

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