2020年6月14日礼拝説教

聖書
旧約聖書 士師記11章1~3節 (旧約p401) 
福音書 ルカによる福音書6章12~16節 (新約p112)

説 教 「主に選ばれる者」

主イエスの祈り
主イエスは、安息日に麦畑に弟子たちと入ってその穂を摘んで手でもんで食べました。そして、安息日に、手が不自由な人を癒されました。(ルカ6章前半)
それは、当時のユダヤ社会ではしてはならないとされていたことでした。
それゆえ、当時のユダヤ人の指導者たち、指導層たちは、主イエスをどうにかしようと怒り狂いました。
その後、本日の聖書にありますように、一人で山に行って、祈られたのです。
 主イエスは、一人で神と向き合い、御心を尋ね求めました。ご自分がこれから進むべき道を確かめるため、神に聴いたのです。
 主イエスは、よくそうして一人で祈られていました。
 そのような主イエスの姿は、わたしたちも倣いたいものです。
 主イエスは、祈りを通して、ご自分のそばに置く十二人の弟子たちを選ぶことを決めました。ご自分の業を共に担う弟子たちを選ぶために、一晩中、祈りました。彼らを派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためです。(マルコ3:14)。

選ばれた弟子たち
 朝になって、弟子たちを呼び寄せて、その中から十二人を選ばれました。
 ガリラヤの漁師であったペトロと呼ばれたシモン、ペトロの兄弟アンデレ、ペトロとアンデレと同じ漁師のヤコブとその兄弟ヨハネ、アンデレとペトロの町ベトサイダの出身(ヨハネ1:44)のフィリポ、ガリラヤのカナ出身のナタナエル(ヨハネ22:2)と同一人物ではないかと考えられているバルトロマイ、徴税人のマタイ(マタイ9:9)、疑い深いトマス(ヨハネ20:25)、アルファイの子ヤコブ、政治的に過激な熱心党のシモン、タダイと同一人物と考えられているヤコブの子ユダ、そして、主イエスを敵の手に引き渡したイスカリオテのユダでした。
 主イエスは、この十二人を使徒と名付けました。それは、その字が表すとおり、遣わされた者ということです。主イエスの権能が授けられた弟子たちです。
 十二人は、イスラエルの十二部族に従っています。また、十二はイスラエルにおいて完全な数です。
 このことだけ見ていきますと、主イエスの十二弟子たちは、完全な弟子たちだったと思われるかもしれませんが、そうではありませんでした。

神の選びの不思議さ
 まず、この世的に見れば、弟子たちのうちペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人はガリラヤの漁師でした。漁師は、ガリラヤ湖で漁をしていました。それは舟から網を投げるやり方でした。その網にうろこがない水の生き物がかかることがありました。そのような生物は、イスラエルでは汚れた動物とされていました(レビ11:9)。ですから、うろこのない生物が網に引っかかった場合、漁師は清められなければなりませんでした。そのように仕事柄汚れる可能性を持っている人たちでした。そして、その他にガリラヤ出身の弟子たちがすくなくとも2人いました。フィリポとバルトロマイ(ナタナエル)です。ガリラヤという土地は、異邦人の地(イザヤ8:23)とも呼ばれていました。主イエスの時代も、ガリラヤは、地理的にもイスラエルの最北にあり、サマリヤを超えていく必要がありました。辺境の地としてエルサレムを中心とする社会からは差別されていました。ナタナエルという人は、フィリポから主イエスを紹介されたとき「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っていました(ヨハネ1:46)。
 他に、汚れた人として差別されていた徴税人のマタイがいました。ローマ帝国と武力闘争をしていた熱心党に加わっていたシモンもいました。これだけの弟子たちを見ても、主イエスの弟子たちは、当時の社会から見ると、怪しい人たちということになります。
 主イエスの弟子たちは、そのように怪しい人たち、社会的信用とは関係のないところにある人たちでした。
 また、その弟子たちが素朴だったから、とか無垢だったから、ということではありません。彼らは、様々な境遇をもっていましたが、内心では偉くなりたい、と思う人々でした(ルカ9:46,22:24)。また、主イエスに従いたい、といいつつも、最後は主イエスを見捨ててしまった人たちでした。特に、裏切り者として名を残すことになるイスカリオテのユダがいますが、ユダだけが特別であった、とは考えられません。

エフタの選び
 主イエスに選ばれた使徒たちだけに限りません。旧約の時代においても神に選ばれた人たちは、この世的な根拠をおかない人たちであったことを思い起こします。
 出エジプトを指導したモーセも、最初は正義感ゆえに、殺人を犯し、結果、イスラエルの社会から離れて暮らしていた者でした。ミデアン人の土地に移り、そこで結婚し、羊を飼うものとなり、それなりに安定して暮らしていたのです。そのような人が突如として、神に呼び出され、自分の出自、民族の問題に向き合い、共同体の問題に関わるようにされたのです。それは、民の救いということだけでなく、その出来事を通して、モーセ自身が自分自身となり救われていったのです。
 本日は、士師記からエフタという士師(リーダー、裁き司)が選ばれる場面を聞きました。彼は、遊女の子であり、家族からは疎まれました。正統な子どもとは考えられず、家からは追い出されてしまいました。そして、エフタ自身も、家族とは距離をおいて、ならずものたちと一緒に行動するようになっていたのでした。ヤクザのような働きをしていたのです。ですから、ますます人々からは疎まれていたのです。今日の旧約聖書の続きで、このエフタがイスラエルのリーダーとして選ばれました。民の長老がエフタにリーダーになってほしい、と頼み込むのですが、そこには不思議な神の選びがあるのです。
 その後、確かにエフタは、士師として敵対する民族に勝利しますが、その後、自分の不用意な誓いのために娘を失うことになりました。
 人が立てられる、というのは、その人が人間として信頼できるから、ということに寄らないものがあります。また、最初は不十分であったとしても、また時には最後まで不十分であったとしても、神に用いられる不思議さがあります。

私たちも選ばれている―悔い改めに向かって
 聖人君子が選ばれたのではないところに、わたしたちも考えさせられ、また自分と重ねることができます。
 使徒すなわち十二弟子たちは、主イエスが、まずは、ご自分のそばに置くためでした。
 問題ある人間だからこそ、主イエスはご自分のそばにおいて、主イエスの出来事を間近で見られるようにし、主イエスの言葉を近くで聞くことができるようにされたのです。主イエスと共に生きることを通して、神の前に立つことができる者たちなのです。
 そして、その弟子たちの姿が私たち自身でもあります。
 そもそも教会が聖人君子の集いであるわけはないでしょう。それを、わたしたちは身をもって知っているところです。
 一方、「選び」によってわたしたちは優越感に陥ることがあります。上から目線を持ってしまうことがあるからです。
 その反対に、神に従いえないことを自覚したり、自分自身の居場所がないと感じるようなときには、教会の敷居が高くなったり、人に負い目を感じます。自分の存在の小ささを感じさせられると、生きる意味やその場にいる意味を見失ってしまうのです。
 その何れにしても、悔い改めを必要とし、神の前で、自分自身を振り返る必要があります。
 悔い改めは、自分自身の罪悪を見たり、感じている罪悪感を見直すというだけではありません。
 悔い改める、とは「視点を変える」ということであり、「向きを変える」ことです。すなわち、神の視点で、物事をとらえていくことです。物事の表側しか見ることができなかったものが、裏側から見る視点を意識するということです。平面的にしか見ることができないところから、上からあるいは下から見てみるようにするということです。上のほうからしか見ていなかったところを、下の方から見ることで、真実に近づくことがあります。
 なによりも、自己の見方が絶対的ではないことを知り、自分自身のこだわりから解放されることが悔い改めることです。その悔い改めをもって、世に遣わされるのです。

名も無き人々の中にある希望―世に遣わされる者として
 先日、「世界に希望が残されているとしたら、それは名も無き人々の中にある」という言葉に出会いました。
 その方は、星空をみて、あれがオリオン座だ、さそり座だ、と見るときに、星座がなければただの星空なのに、その星空を物語の中で見ることができたとき、古代のギリシャ人に「ありがとう」と言いたくなる、というのです。また、昔話はハッピーエンドで終わるけど、実際にハッピーな出来事だけではない。にもかかわらずその物語が語り継がれてきたのは、そこに祈りに似たようなものがあるからだ、と言っていました。星にまつわるギリシャの神話を、誰が語り始め、語り継いできたのか、個人を特定することはできません。また、ハッピーエンドな昔話を誰が語り始め、語り継いできたのか、逐一特定することはできません。しかし、確実に誰かが存在しました。名を持つ誰かでしたが、歴史においては、名も無き人でしかありません。世界が少しでも良い方向に向かってほしいと願うその一人であることの大切さがあります。
 聖書の中の登場人物は、歴史的には名も無き人々がほとんどです。
 しかし、名も無き人々によって、希望の歴史が紡がれるのです。
 最近、アメリカで特に警察による黒人差別、殺傷の問題が大きく取り上げられています。そのことで思い起こすのは、60年代のアメリカの公民権運動のことです。マルティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が暗殺された後、白人の一部の人たちは、リーダーを失って黒人たちはバラバラになる、と思ったそうです。しかし、キング牧師の運動は、彼のリーダーシップでまとまっていたのではなく、キング牧師の信仰によって、そして、彼の信じる神によって導かれていたのです。アメリカの公民権運動の中で、確かにキング牧師は黒人だけでなく白人をも巻き込む力ある演説をしました。しかし、それを具体的に担ったのは、家庭や学校の教育を担い、人々の意識を変革していった人々です。また、声に出すだけでなく、声にならない声を聴き取っていく人々がいたからです。 
 わたしたちも、主イエスに選ばれた使徒のように、主のそばに仕え、神の国のために使わされている者です。この世界で何者かである必要はありません。むしろ、主以外のことを誇る誘惑を考えると、何者かであることを諦めなければなりません。十二弟子の中には、アルファイの子ヤコブ、ヤコブの子ユダのように、彼らがどのような人物だったのか、聖書にもなんの手がかりのない弟子たちもいます。また、イスカリオテのユダのように悪名を負った使徒もいます。その一人一人が、主イエスの徹夜の祈りの末に選ばれたのです。
 主イエスは、十字架につけられる前、やがては、主イエスを知らない、というペトロに対して「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。主は、なおもわたしたちのために祈られている方です。聖霊を注ぎ、わたしたちが自分の小ささや罪深さに気づかされても、それに飲み込まれることなく、神の御心に適うように用いてくださる方です。この方の祈りと言葉がわたしたちの生きる根本にあります。

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