2021年9月19日礼拝説教 聖霊降臨節第18主日

聖 書
旧約聖書 サムエル記下12章9節 (旧約p445)
9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にか  け、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。

新約聖書 ルカによる福音書13章1~5節 (新約p134)
 1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

なぜ天罰と考えるのか?
 2011年の東日本大震災のときに、ある政治家が「これは天罰だ。日本の強欲が流されたのだ」などと言いました。また、韓国のあるキリスト教の一派の牧師が「日本の罪に対する神の罰だ」と発言しました。それらのことが問題となったのです。
想像もできないような天変地異があると、誰かが「これは偶然ではなく、天罰だ、神の罰だ」などと言います。関東大震災のときには、渋沢栄一などが、この天災は、今の日本の政治、経済、道徳の観点から偶然ではない、と述べていました。同時代を生きた内村鑑三は、日記などの個人的なところではそれに賛同して、「『芸術と恋愛』の東京が潰れたのである。我等の説教を以てしては到底行うこと能はざる大改造を、神は地震と火を以て行ひ給ふたのである…」と書いていましたが、公には、地震などの天変地異は自然現象であることを述べつつ、次のように語っていました。
「悪人が之に遭遇すれば天災は確かに天罰である…義人が之に遭遇すれば天災は天罰ではなくして試練である。」
客観的には、事故であれば誰かの責任ですし、自然災害は自然現象です。
なぜ、人は天罰などと考えるのでしょうか?
それは人間は無意味には耐えられないからではないか、と思います。受け止めきれない出来事を前に、私たちは何らかの意味を求めるようになっているのです。

ナチスの強制収容所の経験も含めて書かれた『夜と霧』というV.フランクルの著作があります。その英語のタイトルは『生きる意味を探す(Man’serch For Meaning )』です。人間には、自分の人生をできるだけ意味あるものにしたいという欲求があり、これをフランクルは「意味への意志」と呼びました。どんなhな状況や苦悩があったとしても「意味への意志」が健康に働いているならば、人は幸せを感じる、生きがいを感じるのです。逆に「意味への意志」がなくなると、人は「生きる力」を失ってしまいます。
悲劇的な出来事、苦悩をどのように受け止めるかによって、人の生き方が変わります。生き生きとした命はどこから生まれるのか、今日の主イエスの言葉から聞くことができます。

悔い改めること
 主イエスのもとに知らせが届きました。
ユダヤの総督ピラトが神殿のいけにえにガリラヤ人の血を混ぜた、というのです。これは明らかにピラトの罪です。しかし、どのような経緯でそうなったのか、思いめぐらします。神殿のいけにえにガリラヤ人の血を混ぜた、というのは比ゆ的表現です。ピラトが、ガリラヤからエルサレムに来た人たちを殺したということです。ガリラヤから来た人たちは恐らく表向きは、神殿に犠牲をささげにきたのでしょう。しかし、彼らをピラトは反逆者だと決めつけたのです。それは、ガリラヤが反骨のガリラヤと呼ばれ、多くの反逆者を生み出してきたからです。(使徒言行録にはガリラヤのユダの反乱のことも描かれています。-使徒5:37)ローマ帝国に対して、またユダヤの神殿政治に対して、反逆してきたのです。エルサレムから見ると、辺境の地であり異邦人の地とまで言われ、差別と偏見の中にありました。ガリラヤのセッフォリスという町は交通の要所でヘロデ大王の宮殿があったり、ローマ軍が駐屯したりしていました。人々が抑圧を肌で感じていたのです。そのようなガリラヤから来た人々が殺されても、エルサレムの人たちは無関心を装ったり、それは彼らが罪深いからだと他人事にしました。なぜなら、彼らの抵抗が結果的にはローマの支配を強めることになったからです。「彼らの無謀な抵抗のおかげで、我々が生きにくくなっている。迷惑だ」と感じる人がユダヤの指導者層の中にはあったのです。
主イエスは、続いてシロアムの塔が倒れた時に亡くなった18人の人たちのことを語ります。その時にも、人々の間では、彼らは運が悪かった、かわいそうに、というだけでなく、なぜ彼らが不幸にあったのか、というと彼らが罪深かったからだ、と考えたのです。
そうしたことに対して、主イエスは「彼らが他の誰よりも罪深い者だった、と思うのか。そうではない」と言われます。
続けて「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われます。
災害や事故があったからといって、今わたしたちは、その犠牲になる人たちを、罪深い者とは考えませんし、天罰などとは思いません。災害や事故は誰にでも起こりうることだからです。
しかし、主は言われます。「悔い改めなければ、滅びる」と。
「悔い改めたら、そのような死を迎えない」ということでしょうか。
主が言われる悔い改めとはどのようなことか、滅びとはなにか、思いめぐらします。
3点ほど考えてみました。

誰もが罪深い者であるという認識
 一つは、誰もが人間である以上、神のように全知全能ではなく完全な善をなすことはできません。その意味でも罪深い者である、ということです。自分自身が罪深い者であるという認識が悔い改めの一つです。悔い改めとは、道徳的善悪の問題を超え、神に向き合っているか、神の方向を向いているか、ということを問題とします。誰か特定の人たちだけを罪に定め、自分は関係ない、自分は罪の罰から逃れうると自己を正当化することはできないからです。(聖書の人間観は、今日のサムエル記にもありますように、立派な王であっても罪を犯す、ということです。)

考え方を切り替える
 二つ目に悔い改めとして考えられることは、人間が全知全能ではなく、何もかも許されているわけではないことを知り、思い違いや考え方を切り替えることです。考え方を変えることは、生き方を変えることにつながります。

自分のこととして考える
 三つ目は、災害や事故は誰にでも起こりうることとして考え、それを他人事ではなく、自分のこととして考えるということです。

神の国を求める
 こうした悔い改めの先にあるのは、神の国です。13章の前の12章で主イエスは言われます。「まず、神の国を求めなさい」と。神の国は、人間の行いの延長にあるのではなく、神がもたらしてくださる世界です。私たち人間が考えも及ばない世界です。パウロは「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ローマ8:18)と述べ、全く新しい世界を神が約束してくださっていることに希望をおいています。
悔い改めるとは、最終的には神の国の希望に生きることです。
先に紹介した内村鑑三は、関東大震災の後、次のように論じています。
「然るに、この天災が臨みました。私共はその犠牲になりし無辜(むこ)幾万のために泣きます。然れども彼らは国民全体の罪を償わん為に死んだのであります。」震災を試練と捉え、亡くなった人たちは自分たちの贖罪のためだ、と考えました。生かされた者は、新しい日本を建設しなくてはならない、と論じたのです。
様々な苦悩があり、災難があります。感染症のパンデミックにある不安が先立つ世界です。しかし、自分さえよければ、自分だけは大丈夫、ということではないはずです。
古い世界が終わりに近づき、新しい世界の到来のしるしと見ます。
神の国を祈り求めること、それが神の国の希望に生きることであり、それが不安に滅ぼされない命ある生き方です。

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