2021年9月12日礼拝説教 聖霊降臨節第17主日

旧約聖書 箴言17章14節       (旧約p1017)
 14 いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。

新約聖書(福音書)ルカによる福音書12章57~59節 (新約p134)
 57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

説 教「自分で判断するために」 柳谷知之牧師

訴える者と仲直りをする

本日のルカによる福音書の新共同訳聖書には「訴える者と仲直りする」とタイトルがつけられています。

主イエスは言われます。裁判沙汰になるときに、気をつけなさい、と。それは、その訴えが裁判官によって取り上げられると、あなたは有罪にされ、牢に入れられてしまう。そこから出ることはできなくなってしまう、と警告されています。

似たような言葉が、旧約聖書にもあります。本日の箴言ですが

「いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。」

箴言は、生きる術、生きる知恵、格言として語られています。

裁判沙汰になったとしても、自分が正しければいいではないか、裁判に勝てばよいではないか、という考えもあるでしょうが、公に訴える裁判となると、そこには他者との溝が大きくなり、修復不可能なほどになってしまう恐れがあります。

主イエスの言葉は、あなたは訴えられたら負けるから、相手と和解しなさい、仲直りをしなさい、と言われています。あなたを訴える人と裁判官のところに行く時であっても和解しなさい、と言われます。裁判の直前であっても和解しなさい、仲直りしなさい、と言われます。

箴言にしても、主イエスの言葉にしても、裁判沙汰を避けることは、この世を生きるための処世術として考えられますが、それだけでよいのでしょうか?

そんな疑問を持ちながら、今日のみ言葉をご一緒に考えていきましょう。

何が正しいのか判断しなさい

今日のみ言葉は、訴える者と仲直りしなさい、と言われる前に、次のことが言われています。

「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と。

この言葉は、その前の言葉ともつながっていると考えられます。先週読んだ聖書箇所ですが、56節に「あなたたちは、どうして今の時を見分けることを知らないのか」とあります。

何が正しいのか判断する際に、今の時を見分けることを知らなくてはならないでしょう。

今の時代、多くの人たちにとって不安が先立つ世界ではないかと感じます。それは私一人の思い過ごしではないことが分かる文章を新聞で読みました。9月9日の信濃毎日新聞でした。

堀内勉さんという「森ビル」の最高財務責任者を務めた人が著した『読書大全』が紹介されていました。そこで、堀内さんは、今の世の中を次のように語っています。

1989年冷戦が終結し、資本主義経済と民主主義が勝利したかに思われたがそうではなかった、2001年9月米国同時多発テロ、2008年リーマンショックを経て「人々が拠って立つ基盤が揺さぶられた。」国内では2011年の東日本大震災と原発事故、今は新型コロナのパンデミック。「人間の営みも自然環境も何か変調を来しているとだいたいの人が気づいている。自分で考えることがますます必要になっている」と。

『読書大全』という本は、「人類の知」の歴史を学ぼうと古今東西200冊の本を紹介しています。彼は経済人ですが、「経済を理解するためには、人間に対する理解が不可欠」と述べ、「ひたむきに本を読みこむことこそ『正解のない問いに答えるための一筋の光明になる』と語っています。

人々が拠って立つ基盤が揺さぶられた不確かな時代です。一人一人が答えのない問いに答えをださなくてはなりません。それは、誰かの考えに頼るのではなく、自分で考えることが必要だ、ということになります。

ここまでは、今日の主イエスの言葉と通じるものがあるように感じます。

根本的には違いはありますが、少なくとも共通することは、人間は自分で考えるといいながら、自分だけで思索を進めていくことはできないということです。他者の助けを必要とせざるをえません。だいたいの人は、先人の知恵を参考にしたりします。自分で判断しなくてはならない、考えなくてはならない、と言いながらも、何を土台としていくのか、何を参考にするのか、ということで、一般的なところは世の知恵に頼るしかないのです。

判断する土台は

しかし、主イエスが私たちに語るところは異なります。聖書の視点は現代が特に不確かな時代というわけではありません。主イエスが活動されていた時代も、不確かな時代でした。大きな時代の転換期にありました。

先週は、今の時を見分ける、とは、神の国が近づいている時を知る、ということではないか、と申し上げました。今の時は、神の国がはじまっているという時です。同時に終わりの時が近づいているということを意味します。

なぜ、自分で判断しないのか、という問いによって、世の終わりが近づいている、その時にむかって、あなたは何を頼りにして判断しているのか、と問われます。なぜ世の価値観や人の知恵に頼ってばかりいるのか、と言う意味も考えられます。

そこで、自分が判断するということは、一人一人が神との祈りの中で、答えを出すしかありません。その祈りは、決して自分勝手なものではなく、み言葉に聴くところからはじまります。自分の思いや考えを越えて示されるところによるのです。わたしたちが判断する基準は、み言葉にあります。み言葉によって主イエスと出会い、また主イエスならどうされるだろうか、と考えていくことです。

裁判との関係

さて、裁判のことで考えると、パウロが次のように語っていることを思い起こします。

「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。」(Ⅰコリント6:1~2)

信仰者同士、教会の仲間同士のもめごとは、自分たちで解決するように、とパウロは勧めます。それは、世の法に裁いてもらうのではなく、信仰的に解決する道があることを示します。世の裁きよりも、信仰の問題として考えるのです。互いに裁き合って、白黒つけて、関係を絶つためではなく、神の民として共に生きるためです。主イエスが私たちと和解してくださったように、私たちも他者と和解して生きる事が、神が望まれていることです。

神との和解

ここまでは、裁判について現実的なところですが、今日の主イエスの言葉には比ゆ的な意味もあります。

神の国は、私たちの活動や働きの延長にあるのではなく、世の滅びと共に最終的にはもたらされるものです。世の終わりにおいて、神の裁きと共に新しい世界がはじまることを聖書は示しています。

ですから、この世の終わりを前にして、誰と仲直りするべきかということが問われます。誰よりもまず神との和解をすることが大切です。神の裁きは厳しく、神に訴えられれば人は必ず有罪となり、牢に閉じ込められるほどのことが起こるのです。

限りある時間の中で、何よりも神と和解しないならば、取り返しのつかないことになります。

では、私たちがどうしたら神との和解できるのでしょうか?

神との和解は、既に主イエスが十字架を通して示してくださいました。パウロは次のように述べます。

「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」(ローマ5:11)、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:14-16)

自分の力で、品行方正に、他者を愛して、罪を犯さないようにして神と和解するのではありません。神の側から一方的に恵みとして主イエスの十字架による和解してくださっています。一人一人が主の和解の言葉と向き合い。その和解を受け取っていくこと、それがわたしたちの判断であり、一人一人に与えられた新しい生き方につながるのです。

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