2021年6月6日 聖霊降臨節第3主日 礼拝説教

聖書 

 旧約聖書 出エジプト記8章15節 (旧約p105)
 福音書   ルカによる福音書11章14~23節 (新約p128)

説 教 「悪霊と聖霊」 柳谷知之

悪霊の働き
 主イエスは、悪霊を追い出されます。悪霊を狭い意味で精神的疾患と理解するよりも、広い意味でわたしたちはとらえることができます。ここで悪霊は「口を利けなくさせる霊」として登場します。「口が利けなくなる」ということは、物理的に口が開かないとか、舌がからまる、といったことではなく、物が言えなくなる、ということです。
いつの時代においても、本当のことがなかなか言えない、ということがあります。人との関係においても、相手に対する配慮である場合と、圧力のゆえに言うことができない場合があります。大きなところでは政治的圧力があったり、組織的な働きの中で口をつぐんでしまうこともあります。真実を知っているのに言うことができなかったり、組織の利益のために、個人の意見を言う場が与えられないこともあります。忖度という言葉が悪い意味でも使われています。
自由にモノが言えないということで、自分が自分でなくなってしまう感覚を持ちます。度が過ぎれば、自ら命を絶ってしまうケースがあります。

森友学園問題を思い起こします。森友学園に対して国有地が破格の安値で売却されたことに端を発し、有力な政治家が関わった証拠書類が改ざんされた問題にまでつながります。
近畿財務局職員であった赤木俊夫さんが、公文書を改ざんしたことを悔い、公表したとしても罪に問われるジレンマの中で心身の調子を崩して、2018年に自殺してしまいました。

現代の悪霊の働きを見ます。

大きな出来事の中では、こうしたことはわたしたちには無縁のことだ、と思いがちですが「沈黙する」ことが罪である場合あります。

性暴力被害を受けた女性が、加害者を告発するとき、彼女を支援する他の人々から「Me Too(私も)」という声があがり、その声が広がっていきました。これまでは、加害者からあるいは社会からの無言の圧力などで沈黙させられていた人々が声を上げていきました。「わたしも沈黙はしない」という意味で「Me Too(私も)」というのです。一方、沈黙することは、声を上げた人を無視することにもなります。沈黙は悪に加担することと言われるようになりました。(一律に皆がカミングアウトするべきというのではありません。そうできない事情を抱えている人たちは多くいるでしょう。ただ、声を上げないようにさせる力に、抵抗する方法を考えていかなくてはならないのです。)

悪霊を追い出す力

口を利けなくさせる霊から解放される人を見て、ある人々は悪霊を追い出した主イエスを批判します。

「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という者が現れました。ベルゼブルは、悪霊の頭として名が通っていました。蠅の王(バアル・ゼブブ)から来た言葉とされています。毒を毒をもって制する、悪を悪によって制する、という考えもあったからです。また、主イエスを試そうとして、しるしを求めるものが現れました。

主イエスは、人々の心を見抜いて言われました。

「どんな国でも内輪もめすれば滅びてしまう。サタンの国も内輪もめすれば成り立たない」

主イエスは、サタンの力で悪霊を追い出しているのではありません。
神の指、神の力で悪霊を追い出されたのです。マタイによる福音書(12:28)では、「神の霊」と表現されています。すなわち、神の霊、聖霊によって主イエスは悪霊を追い出されます。

聖霊の働き
 口を利けなくする悪霊を追い出された主イエスの力は、聖霊を通して現代にも影響を与え続けます。
聖霊は真理の霊です(ヨハネによる福音書14:17)。真理の霊は、わたしたちを導いて真理をことごとく悟らせます(ヨハネ16:13)。真理はわたしたちを自由にします(8:32)。真理を語ることに恐れがあります。沈黙を破れば、もしかするとかえって傷つくかもしれません。家族や友人など他の人を傷つけてしまうかもしれません。主イエスのように十字架の道を歩まざるを得なくなるかもしれません。しかし、真理の霊が私たちを導かれます。わたしたちを突き動かし、神の国のために口を開くように導かれます。

いままで沈黙していた人々が口を開くとき、周囲の者たちは驚きます。いい意味での驚きと悪い意味での驚きがあります。

悪い解釈をする人たちは、秩序を乱す者だ、と言います。沈黙は美徳であると考えられますし(参考:英知ある人は沈黙を守る 箴言11:12 …本来は舌を制することの必要性を説く。神に従う人の口は命の源、神に逆らう者の口は不法を隠す。 箴言10:11)、主イエスの行動は当時の人々にとって常軌を逸した活動に見えたからです。

神の国をもたらす
 しかし、主イエスが語られるように、主イエスの力は、神から与えられたものです。その力は神の国をもたらすからです。

神の国は、神が共にいてくださるという世界です。それは、わたしたちの常識を超えることがあります。

例えば、神の国(支配)について、次のようなことを考えます。
先日、カール・バルトという人とオスカー・クルマンの論争を紹介している文章を見ました。
バルトは「幼児洗礼はおかしい」と主張しました。「信仰は神と人間と実存的な一対一の契約である。それなのに意思もない赤ん坊に神と契約を結ばせるのは、詐欺のようなものだ」と述べます。
それに対してクルマンは反論します。「バルトは、信仰とは神との一対一の契約であると言ったが、それは信仰ではない。神と人間との関係は、神が人間に一方的に恩恵を与えることから始まっている」つまり、一対一の契約は、資本主義的な関係あるいは「公正な取引」にすぎず、それは信仰ではないと。幼児洗礼は神からの無条件の贈与である。神は見返りなど求めていないのだから、というのです。

信仰の世界が打算ではない、といえば誰もがうなづくでしょう。神は自動販売機ではない、という考え方もお分かりになると思います。しかし、どこかで私たちは、いいことをすればよい結果になり、悪いことをすれば悪い結果になる、という考え方に支配されているところがあります。それは因果応報の世界であり律法主義の世界です。それに対して、神は、親の財産を食いつぶした放蕩息子であろうと、強欲な徴税人であったザアカイであろうと招いておられるのです。神の招きがあるところが神の国です。

神の国では、神の恩寵が100%です。人間の意志や状態は問題にはならないのです。

一方、人間の応答は意味がないのか、というとそうではありません。

神の働きかけがあるからこそ、人間は応答できるのです。

わたしたちは、神の働きかけによって聖霊を受け、聖霊を受けたものとして、自由に応答することができるのです。聖霊はわたしたちを悪霊から解放する力です。

では、どのように神の霊を受けるのでしょう。

神の言葉に出会うこと、祈ることを通して、私たちは聖霊を受けるのです。

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