2021年9月26日 礼拝説教 聖霊降臨節第19主日

聖書

旧約聖書 エゼキエル書34章11-12節 (旧約p1352)
11 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。12 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。

新約聖書(福音書)ルカによる福音書13章6~9節 (新約p134)
 6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

説 教 「とりなしてくださる主」   (別紙)  祈祷  柳谷知之牧師

悔い改めなければ滅びると言われると…

主イエスは、先週の福音書で、悔い改めなければ皆滅びる、と言われていました。

その言葉に続いて、今日、譬えを話されます。

悔い改めるということは、道徳的善悪だけではなく、根本的に神の方向を向くということです。しかし、それがいつも人間にできることだろうか、と考えさせられてしまいます。わたしたちは、状況に左右されやすく、神と共にある、と思える時もあれば、反対に神を忘れてしまうこと、神などいない、と思ってしまうこともあります。不安な出来事があると、神に信頼することを忘れてしまいます。

そのようなわたしたちは、悔い改めなければ滅びる、という言葉に、少しどきっとして、自分は滅ぼされる側ではないか、と感じてしまうのではないでしょうか。

反対に、わたしはそのようなことはない、と言える人は、たとえこの世において大きな苦難があったとしても、神は既に勝利され、永遠の命、復活の命を与えてくださる、とゆらぎなく信じることができているのでしょう。早くこの世界に裁きをもたらしてください、新しい世界をもたらしてください、と祈るかもしれません。今、権力を思うがままにしている人たちを早く裁いて滅ぼしてください、神の国を早く来たらせてください、と祈らざるを得ないこともあります。

そのような私たちに対して、今日の主イエスの言葉は、すこしちがった見方を与えるものではないか、と考えさせられます。

いちじくを世話する園丁

たとえ話によって、主イエスはぶどう園に植えられたいちじくについて語られます。

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。」(6節)

「ぶどう園にいちじく?」って、わたしは思いましたが、調べてみると、そういうことはよくあったようです。ぶどうもいちじくも、パレスチナにおいてはとても重要な果実であり、特にぶどうはその実を食べるだけでなく、干したり、ぶどう酒にして、水分の補給、栄養素の補給などで人々の生活を支えました。いちじくは、地下に水脈のあるところに生えますので、乾燥しがちな土地柄にあって豊かな土地を示すしるしであり、果実も生のまま食べるだけでなく干して保存して日々の生活に活用していました。いちじくを干した実やいちじくの葉はくすりとしても活用されていました。

いちじくは植えてからだいたい2年ほどで実がなるようになるとのことですが、今日のたとえ話では、実るようになってから3年が過ぎていたことが分かります。

「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。」(7節)

ぶどう園の主人は、ぶどう園を管理させていた園丁に言いました。

「だから、切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」(7節)

ぶどう園の主人は、場所をとっているいちじくの木を切り倒すように言います。それはお前の管理の仕事ではないか、と言わんばかりに。

ところが園丁は、この主人に抵抗します。

「御主人様、今年もそのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(8-9節)

おそらくこの園丁は、何年もいちじくを世話してきたことでしょう。せっかく植えたいちじくです。最後に、もう一度だけチャンスをください、もう少し熱心に世話をします。木の周りを掘って、水をやり、肥しをやってみます、と主人にお願いしたのです。

いちじくが現すこと

では、このたとえは何をあらわすのでしょう。まずいちじくは何を表すか考えてみます。

旧約聖書では、しばしばいちじくの実は神の恵みをあらわします。

エレミヤ書24章には「主はわたしに言われた。『エレミヤよ、何が見えるか。』わたしは言った。『いちじくです。良い方のいちじくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くて食べられません。』そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。」(3-6節)

また、イスラエルをぶどうの木、いちじくの木に例えて語られるところがあります。(エレミヤ8:13、ホセア10:1)そして、神は、ぶどうやいちじくに良い実を期待しています。神の恵みを表すようにと望まれています。

神は、わたしたちにも良い実を期待していることと思います。しかし、なかなかその実を結ぶことはできません。「もう切り倒してしまえ」という裁きの声が聞こえます。しかし、そこで執り成してくださる方がいてくださるのです。

主人は切り倒せ、というけれど

 ではその猶予は、一年だけなのでしょうか。それは分かりません。私たちの時間にも限りがあることは確かです。ただし、この園丁は、主人に「切り倒せ」と言われているにも関わらず、「もしだめなら切り倒してください」と答えるのです。自分からは決して切り倒さない、と決意しているかのようです。切り倒すなら、ご主人様、あなたが切り倒してください、と言っているかのようです。

そのように園丁はあくまでもいちじくの側にたつのです。

執り成す方はどなたか。主の世話になる道。

 この園丁は、主イエスです。主が、わたしたちのために執り成してくださいます。

主イエスは、十字架によってわたしたちを赦され、神との間を執り成してくださいました。

その主がわたしたちの実りがないところで、もう一年待ってください。土を掘り、肥料をやってみます、と言ってくださいます。

わたしたちは、その主の世話になるだけでよいのです。

主は、わたしたちを何よりもみ言葉によって養ってくださいます。

まず第一に、聖書の言葉が与えられています。そのみ言葉に基づきながら、祈りの言葉が与えられ、讃美の言葉が与えられます。神の御言葉を受け止めるとき、あらゆる出来事においても神の言葉として受け止められることを体験します。そのような出来事によってわたしたちは神に養われています。

前回の箇所と関係して読んでいくと、悔い改めるとは、主の世話になる、ということです。

今日の旧約聖書においても、神が羊飼いとして、バラバラに散らされた羊を集めてくださることが語られています。主の世話になることを潔しとできないほど、私たちには自己主張があることでしょう。自分の力でなんとかしなければ、ともがくことがあります。

執り成してくださる方に導かれて。和解の実を結ぶ

さて、ルカの福音書が書かれた時代、神の国がもたらされるという希望はありましたが、それがなかなか来ない、ということが問題となりました。神はなぜ終末を遅らせているのか、と。その答えとして、ルカは、神は忍耐して待っておられるのだ、すべての人が悔い改めるのを待っておられる、と考えました。そして、今日の箇所ように、主が実らないいちじくを世話し、とりなしてくださるのです。

私たちもまたその主によって執り成され、神との和解に導かれたものです。

しかし、そうであるにも関わらず、私たち自身が、主の忍耐にもかかわらず、実りのないものを批判したり、取り除こうとしてしまうことがあります。

今日のみ言葉は、主がわたしたちを執り成してくださる、ということだけでなく、わたしたちも主の忍耐の思いに支えられ、他者との和解のために世に遣わされていることを覚えたいものです。

私たち自身が、まず神の恵みを表す実り豊かな人生を送りたい、と願います。

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