2021年6月27日 礼拝説教

聖書 旧約聖書 箴言10章29節 (旧約p1004)

福音書 ルカによる福音書11章27~28節 (新約p129)

説教 「真に幸いな人」 柳谷知之牧師

人間が思う幸い

誰でも生きている限り、幸せに生きたいと願います。誰かを憎んで生きるよりも、誰かに愛されたい、人を愛していきたいと願うものです。また、自分自身の居場所を求めます。自分が肯定される場所を求めます。他者から認められたいと願います。誰かの役に立つことや、自分にしかできない仕事をするといった、自己実現によって自分の居場所が与えられます。また、誰か身内や近しい人によって、自己肯定感を持つこともあります。自分と同じ地域の人や同窓生が活躍すると嬉しくなります。子どもが良い働きをしていると嬉しくなるものですし、親として報われたという気持ちが与えられることでしょう。

子どもが活躍していれば、親も喜んでいるに違いない、と誰もが思うことでしょう。

そのような人の気持ちを代弁するかのように、今日の聖書に登場する女性が声高らかに主イエスに言いました。

「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」

主イエスの母であるマリアはなんと幸せだとう、と讃美します。

それほどに、主イエスが素晴らしく、主イエスの言葉や行いに大きく心を動かされたのです。主イエスを身内に持つ母マリアをうらやましく思ったのです。

しかし、主イエスはその女性の言葉には同意されませんでした。

「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人たちである」と言われました。

主イエスが言われた、神の言葉を聞き、それを守る人たちの幸いとはどのようなことでしょうか?

ミネヤンの出来事

NHKで「こころの時代」という番組があります。録画して後から見ることが多いのですが、先日 2019年の再放送で、長崎のカトリックの司祭で古巣馨という方のことを見ました。古巣司祭が出会った人たちが紹介され、ミネヤンという人が登場しました。彼は、身寄りがなく、若い頃に精神的に病んでしまった人でした。

あるとき、古巣司祭が「せっかく洗礼を受けてキリスト者になったのだから、あなたを支えている聖書の言葉は何ですか?」と尋ねると、「そんな難しいことはわかりません」と答えつつも「でも、夢ならあります」と言いました。「どんな夢ですか?」と司祭が尋ねると「洗礼を受けるときに、あなたはこれから神の子になりますって言われました。ですから、死ぬときには、神様の子どもだって言われたいです」と。そう言って滅多に開かない聖書を開くとそこに「平和のために働く人は幸い。その人は神の子と呼ばれる」とあったのです。「だから神父さん、私は平和のために働くとです」というのです。古巣司祭は、「平和のために働くってどういうこと。この長崎で、8月に戦争反対、原爆反対って歩き回る事?」とちょっと意地悪に尋ねたのですが、ミネヤンは「平和のためにどう働きますかね」と困ったような顔をしました。

まもなく、ミネヤンは末期の肝臓がんになり入院しました。病院から「この人は身寄りがない人ですから、あなたが最後まで関わってくださいね」と言われました。古巣司祭は、定期的に見舞いに行っていましたが、ある時、行く気がしなくなり、今日は都合が悪くていけません、と伝えました。その次に、この前は行けなくてごめんなさい、というと、ミネヤンは「よかとです」と言いました。「神父さんの都合の良か時でよかとです。私には都合はなかとです。私は都合の言える人間でありません。私は親の都合で、親のいない子どもとして生まれました」。ミネヤンは初めて自分の素性を司祭に話しました。「私の母は二歳の時に亡くなったそうです。私は母の親戚の戸籍に入れられています。親戚の都合であっちにやられ、こっちにやられました。そして親戚の都合で、養護施設に預けられました。中学を卒業して早く独り立ちしようと思って、都会に出て車の整備工になりました。でも三十歳の時に病気の都合で病院にはいりました」「病院の都合で、教会の仲間と合うことが決められます」「院長先生の都合、院長先生の気分がいいときには、どうぞ会って励ましてください、と言われます。でも院長先生の都合の悪い時は身内しかダメです、と言われ会わせられないこともありました。私にも都合がありました。早く病院を出て社会人として働きたい。私もせっかく生まれたんだから、生きがいを持って生きたい、と思っていました。そう言って自分の都合を言っているときは、とっても生きづらかったです。でもこの頃思うんです。私の都合でなく神様の都合をいつも考えようって。神様の都合があるから、私はここにいるんだと思うんです。神父さん、私には都合はなかとです。あなたの都合の良い時に来てください」

古巣司祭は、こう言われて、頭を金づちで殴られるような感じがして、教会に帰って泣きました。

それからまもなくミネヤンは亡くなり、最後に教会でお葬式をしました。病院の医者たちは都合がつかず来ることができませんでしたが、夜遅く、病院の掃除をしていた二人の女性が来て言いました。

「ミネヤンがおらんごとなってさみしゅうなりました。この人のおる所は平和だったんですよ」と。

「どうしてですか?」

「あぁ、この人は自分の都合を言わん人でしたから。季節の変わり目に入所者達が面持ちが悪くなってよく衝突するんです。そうするとその衝突した争いがあるところにミネヤンをベッドごと持って行って、あの人は自分の都合を言わん人でしたから、争いの中にミネヤンが入ると、そこが静かになるとです。あぁこの人はここの人だったんですか。今わかりました。ミネヤンは神様の子どもだったんですね」と話していったのです。

「平和のために働く人は神様の子どもと呼ばれる」という言葉を単純にそして素直に生きたらこのミネヤンのすべてになったのです。平和のために働きたいということは、ミネヤンにとっては自分の都合を言わないという形でした。

親の顔も知らずに生きて、誰の子どもかもわからずに生きて来たミネヤンが最後に、神さまの子どもと呼ばれたのです。

このミネヤンの話を聞きながら、わたし自身も雷に打たれるような思いがしました。

神様のために生きる、といいながら、自分の都合を優先したり、自分の都合ばかり言ってはいないか、問われました。ミネヤンの生き方は、今日の聖書の「神の言葉を聞き、守る人」とちょうど重なります。

真に幸いな人

古巣司祭は、「あなたを支えている聖書の言葉はなんですか?」と尋ねました。そこから一人の人との対話に導かれました。その人の生き方を通して、自分自身の生き方を振り替えさせられました。声高には叫ぶことのない信徒の一人を預言者と呼んでいました。預言者の働きすなわち命の水を運ぶ働きが道しるべである、自分はそのことを伝えていく使命があると言っていました。

ミネヤンは「平和のために働く人は幸い。その人は神の子と呼ばれる」(マタイ5:9 新共同訳は「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」)という言葉に支えられ、その言葉どおりに生きた人でした。その言葉を最初から知っていたというよりも、キリスト者としての自分の望みがあり、その望みに合う聖書の言葉と出会ったのです。その生き方は、洗礼を受けたときから与えられたものでしょう。そして教会とつながることから導かれたものでした。神の出来事となって今私たちにも語り継がれています。ここに主イエスが言われる幸いな人がいます。

わたしたちも聖書の言葉に支えられているものです。御言葉と出会った経験があると思います。キリスト者としてこう生きたいという願いがあるでしょう。

御言葉や生き方は、それぞれ違っていてよいのです。一人一人がどう神にとらえられたかが大事です。

しかし、共通することがあります。神のために生きる方向性です。

本日の箴言は、「主の道は、無垢な人の力」と告げます。

ミネヤンの言葉でこころに残る言葉があります。「自分の都合を言っているときは、とっても生きづらかった。神様の都合をいつも考えようと。」神のために生きることで、与えられた人生を豊かに生きることになりました。

神のために生きること。何よりも主イエスがわたしたちに先立って示されます。十字架の道です。

自分の都合であれば、主イエスは十字架を降りることもできたでしょう。しかし、神の都合に生きたのです。そこで罪の赦しと復活の命を示されました。すべての人がこの十字架のもとで神の子とされ、神の家族となる幸いが示されています。

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