2021年4月4日 礼拝説教 復活祭・イースター

聖 書

旧約聖書 エゼキエル書36章26節(旧約p1356)

福 音 書 マタイによる福音書28章1~10節 (新約p59)

説 教 「新しい朝が来る」 柳谷知之

イースターおめでとうございます!復活の主が皆さんと共に!

そこがいいんです!

先週、教会を訪ねて来られた30代の男性の方としばらくお話していると、その方は、カラオケや卓球などをしていると気分がよいという話になりました。カラオケではどんな曲を歌われるの?と聞くと、King Gnu(キング・ヌー)など好きです、という答えがありました。〔白日(はくじつ)という曲がヒットして2019年の紅白歌合戦に出場したグループです。作詞作曲ボーカル、ギターもこなしている常田(つねた)大希とボーカル・キーボードの井口理(さとる)が伊那出身ということもあり、長野県に住むものとしては少し親しみを感じていたところもあります。〕どんな曲を歌われるの?と聞くと、「白日も歌いますよ」とのこと。その曲は、とても難しいのですが、最初の出だしの歌詞を聞いて、以前から興味を持っていました。

改めて歌詞を見てみると次のように歌われています。

時には誰かを/知らず知らずのうちに/傷つけてしまったり/失ったりして初めて/犯した罪を知る

(中略)

真っ新に生まれ変わって/人生一から始めようが/へばりついて離れない/地続きの今を歩いているんだ

季節を越えて/また出逢えたら/君の名前を/呼んでもいいかな/その頃にはきっと/春風が吹くだろう

(中略)

真っ白にすべてさよなら/降りしきる雪よ/今だけはこの心を凍らせてくれ/全てを忘れさせてくれよ

といった歌詞です。何が気を引いたか、というと、犯した罪に気づかされ、なんとか生まれ変わりたいと願いながらも、地続きの今を生きていくしかなく、いつか君の名前を呼ぶ日が来てほしい、という願いがあるところです。他にも「朝目覚めたらどっかの誰かになってやしないかな」という言葉もあります。生まれ変わりたい、犯した罪を越えていきたい、という切実な思いが現されている感じがするのです。そして、希望の春風を待っているのです。

訪ねて来られた方に「この歌は、なんとか救われたいって思いが現されていますね」「聖書は、誰でも新しく生きる事ができるって伝えてるんですよ」と言うと、その方は「そこがいいんですよ。キリスト教って」と言われたのです。それを聞くと、わたしも何か通じているものがあるんだなってうれしくなりました。

キリスト教は「罪」や「罪人」ということが分からないとなかなか入っていけない宗教ではないか、と思いますが、このような歌がヒットするということは、人は誰でも、心の奥底では、生まれ変わりたい、なかったことにしたいという気持ちを持っている、ということではないかな、と思いました。そんな気持ちに対して、現実は、赦しのない世界しかない感じがします。そして、誰だって取り返しのつかない過ちを犯してるんだから…とつぶやいたり、時が解決するのを待つしかない、と折り合いをつけているように思えるのです。

後悔する弟子たち

聖書が語る「罪」がこのような罪意識に近いものかどうかは分かりませんが、犯した過ちのために後ろめたさや、居場所を失っている感覚は、「罪」から出てくるものとしてはあるでしょう。弟子たちは、主イエスの十字架を体験して、不本意ながら主イエスを見捨ててしまったことを後悔しました。主イエスに従ってきたのは、私利私欲のためだけではありませんでした。主イエスに魅かれ、主イエスの言葉や行いに心を動かされてきたはずです。しかし、肝心なところで主の思いを理解できず、自己中心的になってしまうどうしようもなさを抱えて来たことと思います。代表的なところにペトロはいます。「死んでもあなたについていく」と言ったにもかかわらず、大事なところで、「あの男のことなど知らない」と三度も言ってしまったのです。主イエスにも他の弟子たちに合わせる顔がありません。(ただし、すべての弟子たちが主イエスを見捨ててしまったのですが…)

また、女性の弟子たちはどうだったのでしょう。大勢の女性たちが遠くから、主イエスが十字架で死なれる様子を見守っていたのでした(マタイ27:55)。ガリラヤからずっと主イエスに従ってきた女性たちでしたが、最後は、遠くから見守るしかなかったのです。悔しい思いや、自分たちに力があれば、という思いも抱いていたことでしょう。その中で、マグダラのマリアともう一人のマリアが、主イエスの遺体を墓に納めるところに立ち会いました(マタイ27:61)。さらに、 安息日(土曜日)が明けて、この二人のマリアが主イエスの墓を見に行ったのです。

なぜ主イエスの墓に行ったのか、というと、マルコによる福音書では、主イエスに香料を混ぜた油を塗るためであったことが分かります。遺体ができるだけ腐敗した臭いを出さないように、ということだったと思います。それが、彼女たちのできる限りの事だったのです。(なぜマタイはこのことを述べなかったのか、というと、マタイは、彼女たちの役割は復活の証言であることを強調したかったからではないか、と言われていますが…)

声をかけてくださる主イエス

 彼女たちは、大きな墓石を誰が取り除けてくれるだろう、などと心配していた(マルコ16:3)ようですが、そのような心配をよそに、大きな地震が起こって、墓石はわきへ転がされたのです。そして、光り輝く天使がその石の上に座ったのでした。

墓には見張りの番兵がいたのですが、彼らは恐ろしさのあまり死人のようになりました。

天使は「恐れることはない。」と言って、十字架につけられたイエスが復活されたことを告げて、「他の弟子たちに『あの方は死者の中から復活された。あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』と伝えなさい」と命じました。女性の弟子たちはまずお墓が空っぽであったことを見ました。天使のその知らせに、すなおに喜び急いで墓を立ち去りました。

そこで、主イエスが登場します。

「おはよう」と声をかけられました。元の意味では「喜びなさい」という言葉です。これはギリシャ語であいさつの言葉というところから、口語訳聖書では、主イエスの言葉(ヘブライ語あるいはアラム語)では「平安あれ(シャローム)」としていました。新共同訳では朝の挨拶の言葉ということで「おはよう」となりました。

喜んで弟子たちのところに急いで向かう女性たちに、主イエスから声をかけられました。主イエスが語る「おはよう」には「喜べ」「平安があるように」という意味が込められています。

世の価値観の中では、自分自身の罪意識の中で「季節を越えて/また出逢えたら/君の名前を/呼んでもいいかな」(King Gnu 「白日」より)とつぶらくしかないかもしれません。しかし、主イエスは、そのようなわたしたちに「喜んでもいいのだ」「平安があるように」という意味を込めて、声をかけてくださるのです。

復活された主イエスとどこで出会うのでしょうか。天使は「ガリラヤでお目にかかれる」と語ります。

そこは弟子たちが最初に主イエスに出会った場所です。主の言葉や行いに心惹かれた場所でした。漁師たちは網を捨てて主に従いました。心の奥では主に従いたいという気持ちが沸き起こったところです。最も主イエスを求めていた時だったと言えます。そして、ガリラヤはエルサレムのような社会の中心部ではありません。周辺化されたところ、誰も注目をしないような場所です。世から捨てられたような場に主イエスと出会える場があります。また、自分が心の奥底で感じている痛みや苦しみをなかなか見ようとしません。そのような苦しみ悩んでいた日々に戻るとき、主イエスの言葉が響いてくるでしょう。

主イエスは、今、わたしたちに聖書を通して語りかけてくださいます。

「あなたの罪は赦された」「あなたはわたしの愛する子」「あなたを決して見捨てない」と聴くことができるでしょう。そこにこそ、主が復活されたしるしがあります。

その主のみ言葉に照らされて、暗い世の中にも、また私たちの心の中にも、新しい朝がやってくるのです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする