2021年2月7日礼拝説教 「味方はいる」

聖 書

旧約聖書  ヨナ書3章10節 (旧約p1447)

福 音 書 ルカによる福音書9章49~50節 (新約p124)

説 教 「味方はいる」    柳谷知之

「そこでヨハネが言った」

弟子の一人であるヨハネが主イエスに言いました。

「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見かけましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」

この発言の最初に「そこで、ヨハネが言った」とあります。日本聖書協会共同訳では「ヨハネが答えて言った」となっています。

前の出来事との関連が語られています。先週のところですが、主イエスは

「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者(重要な者)である。」と言われました。それに答えて、ヨハネが言っているということになります。

どういったこととつながるのか、と考えてみると、「わたしを受け入れる」ということと本日の箇所がつながるのではないか、と考えました。「主イエスを受け入れる」というのは「最も小さい者を最も重要な者」として受け入れる、ということです。

主イエスの名を用いて、悪霊を追い出している者でありながら、主イエスに従っていない者がいたのです。弟子たちに従っていないので、弟子たちとは異質な者となります。ヨハネはじめ弟子たちは、一緒に従わない者は仲間ではない、ということになるでしょう。そして、仲間と認めるよりも、そうした人を排除する方向で、その行為(主イエスの名によって悪霊を追い出す行為)をやめさせようとしたのでした。

今日の文脈を見ると、主イエスを受け入れる、ということは、主イエスに逆らわない者をも受け入れるということとつながるように思います。

イエスの名を用いる者

ところで、主イエスの弟子以外に、主イエスの名を語る者がいた、ということに驚きを感じます。また、いろいろな疑問が出てきます。なぜ、その人は、主イエスに従わなかったでしょう。主イエスの名を語る者は、直接主イエスに従わなくても、大きな目でみると主イエスに従っていることになるのでしょうか。

具体的にどのような人がそのような活動をしていたのか、主イエスが復活された後はどうなったのか、などと考えますが、よく分かりません。使徒言行録には、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたアポロが、神の国を伝道しているのですが、主イエスの洗礼を知らなかったので、弟子たちと会って、洗礼を受ける場面があります。少なくとも、主イエスの弟子たちの間でも様々な分派がありました。エルサレム教会、ヨハネ教団などが知られています。パウロは、コリントの信徒たちに送った手紙の中で、

「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。」と言って、教会内に争いがあることを語っています。主イエスの復活後、弟子たちは、主の兄弟ヤコブを中心にまとまっていたかのようですが、様々な分派がありました。パウロも使徒としての自覚がありながらも、他の弟子たちからは、もともとは迫害者だったじゃないか、と言われ、使徒とは認められていませんでした。今でこそ、新約聖書の書簡の中でも中心的ですが、当時はパウロの位置は大きくなかった、と考えられています。ルカによる福音書が書かれた当時に、今日の箇所を読むならば、そうした分派と敵対してはならない、と言われているように読めます。どちらも、主イエスの名を語って福音を宣べ伝えていたからです。

では、誰でも主イエスの名を用いて悪霊を追い出すことができるのでしょうか。

イエスの名によって悪霊を追い出す

ここで思い起こすのが、ルカによる福音書と同じ著者による使徒言行録の出来事です。使徒言行録では主イエスの名を用いて悪霊を追い出そうとして追い出せなかった人のことが描かれています。

「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。…悪霊は彼らに言い返した。『イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。』そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。」(使徒言行録19章13節以下)

ここで示されているのは、形だけでイエスの名を語っても、本当に主イエスを信じている者でなければ、悪霊を追い出すことはできないということです。使徒言行録で語られているユダヤ人の祈祷師たちは、私利私欲のためあるいは自分たちを権威づけるために主イエスの名を用いたと思われます。そのような人には、悪霊を追い出す権能は与えられていないのです。

味方がいる

ただ主イエスの名を用いる、ということではなく、深いところで主イエスとつながり、主イエスの働きを担う者がいる、ということです。

このことは、宗教者にとってある寛容さを示すものです。一緒に行動するあるいは一緒の組織となるというわけでなくても共に仲間として、味方として存在する者がいるのです。

この前の「最も小さい者を最も重要な者」の「最も小さい者」には、社会的に小さくされた者たちだけでなく、わたしたちがとるに足りないと思う者たち、異端と思う者たちももしかしたら含まれているのではないか、教派や宗派が違っても、本物としてつながる者、共にある者がいるのではないか、ということが示唆されています。

押田成人神父の著作集の中に次のような言葉があります。

「初代キリスト者は、現在の無神論者たちと同じことをしました。つまり、教えとか社会的に与えられ宇ものとかではなく、生きている『存在』『絶対』『在るもの』を追求した。彼らにとってキリストとはそれだったのです。」(『押田成人著作集2』36頁)

存在の根底にある『在るもの』に従うなら、悪霊から解放されるのだ、ということです。(悪霊とは、人間を抽象化し、モノ化する諸力です。)その意味ではイエスの名は、必ずしも直接的ではないと言えるでしょう。

私たちの現実の中でも、孤独であったり、四面楚歌に思われる中にも、味方がいるのです。その味方は、教会の外にもいるのです。身近なところでは、教会生活を支えてくれる家族もそうでしょう。また、小さき者、私たちが無視しているような存在、気づかない存在の中に、キリストを発見する、『存在すること』の本当の姿を見るならば、その味方に気づかされることでしょう。

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