2020年8月2日聖霊降臨節第10主日 平和聖日 礼拝説教 

聖 書 

旧約聖書 ミカ書4章3節 (旧約p1453)
福 音 書 ルカによる福音書7章18~23節(新約p115)

説  教 「主の平和の実現」

洗礼者ヨハネの質問とその答え
 先週のところからルカによる福音書の聖書箇所が飛びましたが、そのところ(ルカ7:1~10、11~17)は昨年に説教しているので今回は割愛いたしました。内容的には、主イエスが百人隊長の僕を癒したこと、ナインという町で死んだ若い男性をよみがえらせたことです。

そのように主イエスは、奇跡を行い、病を癒し、死人をよみがえらせていた、ということを洗礼者ヨハネの弟子がヨハネに知らせました。ヨハネは、そのとき牢獄に囚われていました。ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスがもともとは兄弟の妻であったヘロデアを妻に迎えたことを、洗礼者ヨハネに非難されました。人々に対しての影響力が大きかった洗礼者ヨハネの口を封じるため、ヘロデはヨハネを捕らえたのでした。そしてやがては殺してしまったのですが(マルコ6:14~29)、今回の出来事はその前のことと考えられます。

獄中のヨハネは二人の弟子を使いとして主イエスに送り、「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たねばなりませんか」と尋ねました。

「来るべき方」とは、イスラエルにおいて待望されているメシアのことです。すでにヨハネは、洗礼の場面で、主イエスを「わたしの後から来られる方、聖霊と火で洗礼を授ける方」と、認めているはずですが(ルカ3:15以下)、本当に来るべきメシアであるかどうか、確かめようとしたのです。

主イエスは、ヨハネの質問に答えました。

「行って、見聞きしたことを伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである」と。

すなわち、主イエスによって、癒しが行われていること、福音が告げられていることを伝えよ、ということです。

21節で、主イエスがなさっていることについて語られています。

「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊で悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」とある通りです。

ただ主イエスが行われていることを伝えよ、と言われているように見えますが、主イエスは、ご自分の言葉で、加えているところがあります。

それが「貧しい人は福音を告げ知らされている」ということです。

主イエスがなさっていることは、単に病や苦しみを癒しているだけではありません。貧しい人々に福音を告げ知らせていること、ここに大きな働きがあります。

体が癒される、心が癒される、というだけではないのです。そして、ここにメシア(救い主)としての働きがあります。

メシアの働き~貧しい者たちとの関連で

そもそも、洗礼者ヨハネはじめイスラエルの人々が「来るべき方」として待ち望んでいたメシアとはどのようなものでしょうか。

旧約聖書が語るところを見てみます。

イザヤ書9章には

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」とあります。

同じイザヤ書11章には、「平和の君(王)」としてのイメージが膨らみます。先ほどのイザヤ書もそうですが、クリスマスの頃にも主イエスと重ねられて読まれる聖書箇所にもなっています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち…彼は主を畏れる霊に満たされる。…弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。…その日が来れば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」

ゼカリヤ書では、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。…わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」(9:9-10)

その他にも、預言者は、何度かメシアが来る日、終わりの日について語っています。本日のミカ書もその一つです。

メシアは、貧しい者(聖書協会共同訳では「地に苦しむ者」)に公平な裁きをし、軍馬を絶ち、剣を鋤にし、槍を鎌とするのです。また、メシアは、エッサイの株(ひこばえ)から出てくるというように、ダビデの末裔と信じられていました。

多くの人々は、主イエスをメシアと信じるものの、イスラエルの王として君臨することを望みました。しかし、主イエスが、洗礼者ヨハネに伝えるように語ったことは、苦難の中にいるものたちが癒されること、貧しい者たちのために福音が語られ、それを彼らも聞いている、ということです。

もともと聖書には貧しい人たちへの特別な配慮があります。

具体的に、律法において、寡婦、孤児、寄留者には、特別の配慮がなされるように戒められています。このような貧しい人たちには、ぶどう畑や麦畑で自由にとって食べることが許されていました(申命記24章)、落穂を拾うことが許され、また畑の持ち主は落穂を全部拾わないよう、貧しい人たちのために残しておくように指示されていました(レビ19章)。さらに、奴隷はヨベルの年(50年目)には、解放されました。ただ単に、貧しい人たちへの配慮としてなされるのではなく、あなたがたもエジプトで奴隷であったこと、貧しいものであったことを忘れてはならない、というところから始まっているのです。そして、そのような配慮に欠く社会であるとき、すなわち、社会が貧しい人たち、苦しむ人たちを顧みないとき、神の裁きが下るのです。多くの預言者がそのことを伝えています。

そして、わたしたちは、常識的に、公平さとは、貧しいものにも、富めるものも平等であると考えていますが、そうとばかり言えないようなところもあります。

主イエスが生まれるとき、母マリアは、次のように神を讃美しました。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます…主はその腕で力を振い、その思い上がる者を打ち散らし、権力のある者を座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と。

公平であれば、貧しい人も富める者も良い物で満たされることを望むでしょう。しかし、富める者、思い上がる者を打ち砕かれ、空腹のまま追い返されるのです。

これは、神が富める者、思い上がる者を愛されていないのではなく、愛するがゆえに、自分自身の貧しさを思い起こされるようにそうされるのです。

神は、わたしたちを思い上がることのないようにされる方です。もともとあなたは貧しい者ではなかったのか、と問われるのです。そして、自らの貧しさを知るものであるからこそ、主イエスの出来事、言葉は福音として響いてくるのです。その福音は、思い上がる者を打ち砕く福音です。「自分に罪などない」と傲慢になる者たちの心を砕き、罪人であることを突き付けるものです。主イエスの十字架を前に、わたしたちは誰も言い逃れをできないのです。

そして、主イエスを排斥したり拒否しようとする人たちを前に、「わたしにつまづかないものは、幸いである」と言われるのです。

平和との関連で

さて、本日は平和聖日です。

75年前に私たちの国は、日中戦争から続く太平洋戦争(いわゆる15年戦争)に終わりを告げました。自ら終わりにしたというよりも、より強大な軍事力、経済力に屈したのでした。原子爆弾が落とされ、国土の主要都市は、焦土と化しました。飢えが蔓延し、栄養失調や病で倒れる人たちも大勢いました。アジア諸国に多大な被害を与えました。

そこからわたしたちの国は悔い改め、そのしるしとして平和憲法を掲げました。

その憲法を、当初からアメリカからの押し付けだ、という意見が最初からありましたが、その成立過程を見ていくと、何人かの日本人の意見が強く反映されていることを見ることができ、決して押し付けではなかったことを見ることができます。今年の憲法記念日の特集で、鈴木義男という人のことを知りました。彼は、福島の白河出身で、白川教会牧師の子として育ち、キリスト教信仰をもとに、司法の世界に関わりました。東北大の教授時代に軍部を批判したことが問われて、辞めざるをえなくなり、弁護士として、治安維持法で訴えられた人たちを無罪に導いた経験もありました。戦後、日本社会党結成に関わり、1946年より衆議院議員になっています。

憲法草案作成の委員会に加わり、彼の発言によって、軍隊を持たないことをより積極的な平和を希求し、それを広めていく積極的役割として位置付けることになりました。さらに、彼は、GHQ草案にはなかった生存権(日本国憲法25条)を盛り込むことに尽力しました。アメリカにもなかった生存権が盛り込まれ、それが今日の社会福祉の根拠になっていきます。

また、この「生存権」は、平和と結びついていることです。

「平和」というと「戦争がないこと」「争いがないこと」として考えるところがありますが、「戦争がない」ということだけでは不十分です。憲法での生存権は、次のように示されています。「(1)誰もが健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(2)国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

一方、「戦争」は、人々の人権を無視し、また有能な人間、戦争に役立つ人間とそうでない人間を差別します。戦争の訓練のために兵士は、人を人とも思わないで殺す訓練を受け、それだけでも精神的に重荷を抱える人たちを生み出します。戦争を遂行する人たちは、自分たちの立場を守るために、他者を切り捨ててしまいます。戦争に花対する思想を抑え込もうとし、時には弾圧していきます。そのために情報も統制していきます。

その意味でも、「生存権」は、戦争とは相いれないところにあります。

そして、聖書が語る「平和」すなわち「シャローム」とこの生存権は結びつきます。

それは、欠けのないすべてが満ち足りた状態を表現しています。

現代の日本社会は、欠けたところ多い社会です。どの社会も人間の社会である限りそうでしょうが、だからといって、それらを見ないようにすることはできません。わたしたちは自分たちの身近なところから、その欠け多い社会、また欠け多い自分自身が深いところから満たされることを求める者です。

主イエスは、貧しい者に福音を告げ知らせました。そして、貧しい者は幸いである、と言われました。貧しい者とは貧しくされた者と考えることができます。その貧しくされた者が、社会の中で価値のないものではなく、生きる意味をもつ者であることを明らかにされるのです。

私たち自身も、自分自身の欠けの多さ、貧しさに気づかされます。イスラエルの民がかつて奴隷であったように、わたしたちも罪の奴隷でした。

その欠けを互いに補い合うように、主イエスは、わたしたちの罪の赦し、罪から解き放ってくださったのです。そこで、欠けが多いことを隠す必要はなく、また強がったり、立派に見せる必要はません。

深いところで、神の祝福の声を聴くことができます。その祝福は、本来すべての被造物に向けられた「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)という声です。

そして、だからこそ、他人事ではなく貧しさと闘う力が与えられるのです。

誰一人として奪われてよい命はなく、また自ら命を絶つことがあってはなりません。

主イエス・キリストによる福音は、一人一人に生かされている根拠をあたえ、平和を脅かすものに打ち勝つ力を与えるのです。

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