2021年7月25日 礼拝説教

聖 書
旧約聖書 出エジプト記19章4節 (旧約p124)
福 音 書 ルカによる福音書12章12章4~7節 (新約p131)

説 教 「あなたに目を注がれる神」 柳谷牧師

恐れるべき方のみを恐れよ

「知の巨人」と言われた立花隆氏が今年の4月に亡くなりましたが、彼は聖書の言葉に支えられていました。母親がクリスチャンでした。「肉体を殺すことが出来ても、魂を殺すことが出来ない者を恐れるな」(マタイ10:28)と教えられていました。「田中角栄研究~その金脈と人脈」(1974年)を『文芸春秋』発表し、当時人気絶頂だった田中角栄と長きにわたって対峙しました(『田中角栄研究』1976年、『ロッキード裁判傍聴記』1981〜85年、『田中角栄いまだ釈明せず』1982年)。当初、立花隆氏は、自分自身が仕事を失う危険、潰される危険を感じていましたが、その時に、この聖書の言葉をしばしば思い出していた、とのことです。(参考:2016年4月6日朝日新聞)

「肉体を殺すことが出来ても、魂を殺すことが出来ない者を恐れるな」という聖書の言葉は、他にも多くの人を励ましている言葉ではないか、と思っています。以前、佐藤美和子さんという方を、思想・信教の自由を守る集いでお招きしたことがありました。彼女は、学校現場での日の丸・君が代の強制に反対した音楽の教師で、クリスチャンでした。「神のみを神とする」ために、「天皇を讃美する歌の伴奏はできない」という趣旨で抵抗しました。そのため裁判をも起こしましたが、そのような抵抗を続けるかどうか、教師を続けるかどうか悩み迷っていた時に、お嬢さんのミッション系の学校の入学式の時に、この言葉を聞いて、勇気を得た、と語っていました。

ただいま引用した聖句は、マタイによる福音書のものです。本日は、ルカによる福音書から聞いています。ルカの版では「肉体を殺すことができても、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とあります。マタイでは、人間を肉体と魂という二つから成り立っていると感じてしまうかもしれません。ルカでは、体を殺すことができたとしても、それ以上何もすることができない、とあります。すなわち、体を殺そうとするものたちは、人間性を否定するかのように見えながら、人間存在のすべてを否定することができない、という広く考えることができます。確かに、悪魔的な力があり、私たちはその前で無力さを感じるしかないことがあります。しかし、それらが全てを否定し滅ぼすことはできないのです。全てを否定し滅ぼすことができる方は、神以外にいらっしゃいません。生きとし生ける者に命の息を与え、その命を取り去ることができる方はただお一人です。その方のみを恐れなさい、と主は言われます。

全てを支配されている神のみを恐れ、そうではない人間の力を恐れるな、と主はわたしたちを励まされます。

一羽の雀

主は、雀を引き合いに出されます。

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。その一羽でさえ、神がお忘れになるようなことはない」と。

ここでも、マタイと比較すると、また面白い解釈ができます。

マタイによる福音書では

「二羽の雀が一アサリオンで売られている」(マタイ10:29)とあり、ルカでは「五羽の雀が二アサリオンで売られている」とあります。

雀は、恐らく食用であったと思います。今でも、焼き鳥屋で雀を食べることができますが、古代でも貧しい人たちの重要なたんぱく源となっていたようです。一アサリオンは、1/16デナリオンで、今の金額で考えると400~600円ぐらいです。マタイのほうで計算すると、一羽200~300円となります。ルカでは、一羽160~240円となります。

ルカは、マタイよりちょっと安いじゃないの、ということになります。伝承の違いと言えばそれまでですが、次のような解釈があります。

雀は市場では、本来、二羽で一アサリオンだったとのこと。しかし、まれに四羽に対して一羽おまけで売られることがあったとのこと。おまけになるような雀は、一羽では商品価値はないような雀で、ちょっと痩せていたり、傷ついていたりするもののようでした。そのようなおまけの一羽こそ最も小さな一羽ではないでしょうか。

その一羽の雀さえ、神はお忘れになることはないのです。

あなたがたの価値

ましてや、人間であるあなたがたのことを、神は髪の毛一本までも数えておられる、目にとめていてくださるのです。どんな小さな存在も神が見ていてくださいます。

主は言われます。

「恐れるな、あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている」

わたしたちは、自分自身の価値に気づかないことがあります。

どちらかといえば、心くじけることが多いのではないでしょうか。

自分自身が存在する意義はあるのか、いてよいのだろうか、と思うことがしばしばあります。

また、こんなことを言ったり、やったりすれば、否定されるのではないか、と他人の目が気になったりします。

しかし、神はわたしたちをかけがえのないもの、大切な存在として目をとめてくださっています。

共にいる神

さらに、マタイのほうと比較します。

「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と言われます。

聖書学者の佐藤研(みがく)さんは、原文には「お許し」はないということで、「あなたたちの父なしに地上に落ちることはない」と訳しています。

これは、「地に落ちる時には、あなたたちの父が共にいる」と解釈できます。

たとえ苦難があり、心くじけてしまう時にも、神が共にいてくださるのです。

今日の詩編「陰府に身をよこたえようとも、見よ、あなたはそこにいます」と通じるものがあります。

旧約聖書は

「あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れてきた」と語ります。

鷲は、ヒナを訓練しながら、最終的には翼に乗せて救うとのこと。

神が共にいてくださる、というのは、安心、安全でわたしたちは何も考えることがない、という状態ではありません。

試練があり、苦難があります。地に落とされるような経験もします。

しかし、そのすべてに神が共にいてくださるのです。

主イエスは、わたしたちに先立って十字架の道を歩まれたのです。

ですから、恐れることはありません。恐れや不安を感じるときこそ、思い起こしましょう。

「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」

主イエスは、この言葉をわたしたち弟子に対して、「友であるあなたがたへ」と、友人として語ってくださるのですから。

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