2020年8月9日 聖霊降臨節第11主日 礼拝説教

聖 書
 旧約聖書 エゼキエル書33章19,20節  (旧約p1351)
 福音書 ルカによる福音書7章24~35節 (新約p116)

説 教 「今の時代を何にたとえるか」                 柳谷牧師

人々は何を求めているのか
 主イエスは、人々の間で福音を宣べ伝えました。言葉だけでなく、主イエスの行動のすべてが含まれます。それは人々を癒し、励まし、慰めたのです。
一方、主イエスは、「わたしにつまづかない者は幸いである」(ルカ7:23)と言われました。主イエスの様々な言葉と行いを見て、つまずく人たち、反発する人たちがいたのです。
主イエスは、洗礼者ヨハネの弟子たちが帰った後、集まってきていた群衆に向かって言われました。これらの人々は、奇跡を行っていた主イエスの周りに集まって来た人たちでした。その人たちの多くが、洗礼者ヨハネにも関心を持ち、中にはヨルダン川で洗礼を受けた人たちもいたのです。
ここで、主イエスは改めて、人々が何を求めているのか、を問います。また、主イエスの立場から、洗礼者ヨハネについて述べているのです。
「あなたがたは何を求めて『荒れ野』に行ったのか」と問われます。「風にそよぐ葦か」というのは、風になびくような不確かなものを見に行ったのか、と。洗礼者ヨハネは、権力者であったヘロデ・アンティパスを批判して、牢獄に囚われてしまいました。洗礼者ヨハネはその意味では、「風にそよぐ葦」などではなく、確固とした信念、神に対する信仰を持っていました。
さらに、主イエスは問われます。「それとも、しなやかな服、きらびやかな服を着た人か」と。主イエスが言われるのは、庶民とは異なる権力にある人々、裕福で贅沢をしている人々です。そういう人は、宮殿にいるではないか、というのです。人々は、一方では、質素に謙虚に神の道を示すような洗礼者ヨハネに惹かれながらも、他方ででは権力者のような裕福さ、ぜいたくさを求めているようなところがあるのです。ですから、その様は「風にそよぐ葦を見るのか」というのは、そのような人々の様子も示しているのです。そして、洗礼者ヨハネのもとに大勢の人々が集まっていましたが、中には皆が洗礼者ヨハネのところに行くなら、ちょっと行ってみるか、見てみようか、と興味本位で向かう人たちもいました。そのような人々がまた主イエスのもとにも来ていました。ですから、主イエスはその人々に対して「あなたは何を求めているのか」と問われるのです。そのことで、人々が自分自身を見つめなおし、本当に自分が求めているものを追い求めるようにしてくださるのです。人々の中には、その問いを受けて、「わたしは洗礼者ヨハネに惹かれていたけれど、それは表面的だったかもしれない。イエスが素晴らしいと思ってきたが、何を根本的に求めているのか」と自問自答しつつ、思い直す人もいたことでしょう。そして、そもそも洗礼者ヨハネとは誰なのか、ということを考えたのです。

洗礼者ヨハネとは
 そこで、主イエスは、洗礼者ヨハネが何者であるか、語り始めます。洗礼者ヨハネは、預言者以上のものだ、と言われます。それは、マラキ書に示された、主の道を備える者でした。
「見よ、わたしはあなたより先に死者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」(マラキ3:1)それは、丁度、イザヤ書の言葉とも響き合います。「荒れ野で叫ぶ者の声がする」(イザヤ40:3は「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え…」)このイザヤ書の言葉が、ルカによる福音書3章にも引用されています。すなわち神の国の到来、世の終わりの時に、救い主(メシア)が来る前に、その道を備える預言者が現れる、その預言者が洗礼者ヨハネなのです。
主イエスは、洗礼者ヨハネは、預言者の中の預言者であり、女の中で最も偉大な者だ、と言われています。それだけ主イエスは、洗礼者ヨハネに敬意を払っていることになるでしょう。
一方で、主イエスは、神の国の最も小さい者でも、彼よりも偉大である、と言われます。
洗礼者ヨハネは、主イエスの神の国の宣教を準備する者という位置づけです。そして、主イエスが語られる神の国に生きる者、福音に生きる者は、そのヨハネよりも偉大な者です。なぜなら、洗礼者ヨハネの洗礼は、悔い改めを促すものでした(使徒言行録19:3,4)が、主イエスの名による洗礼は、さらに罪の赦しと新しい命に生きることを表します。悔い改めで留まるのではなく、その先が主イエスによって示されているのです。

神の国の一員として
 ここに神の国の特色があります。神の国についてもう一度振り返ってみます。
主イエスは、宣教のはじめに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15 参考マタイ4:17)と言われました。これに相当するルカでの主イエスの言葉が「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたのからである。」(イザヤ61:1)を引用するところからはじまる説教です(ルカ4:18)。神の国とは、イエスの母マリアの賛歌にあるように、「主は…思い上がる者を打ち散らし、権力のある者を座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」とある世界です。貧しい者、虐げられた者、困窮する者を神は見捨ててはいません。この世において、最も小さい者とされている者が、神の国では大いなる者とされるのです。この世の価値観が逆転していくのです。これは、神が富める者、思い上がる者を愛されていないのではなく、愛するがゆえに、自分自身の貧しさ、罪深さを思い起こされるようにそうされるのです。本日のエゼキエル書にあるように「悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、それゆえ彼は生きる」と神は言われるのです。思い上がるものが打ち砕かれ、神の前で謙虚になることが求められるのです。全ての人が、神の前で等しい者であることに気が付かなければなりません。そして、恵みを知る神の国の一員は、この世での評価や地位を超えて、地上の誰よりも大きな者とされているのです。神の国は世の価値の逆転が起こる場なのです。いったん、十字架によって古い自分に死に、新しく生きる命が与えられるのです。
だからこそ、世の秩序を保とうとするもの、世の価値観に倣おうとする人たちは、それに反発して、「主の道は正しくない」と言ってしまうのです。

神の国対する人々の反応(社会の反応)
 世にあって、虐げられている人々、居場所がない、と思っている人々は、洗礼者ヨハネの洗礼を受けにきました。これまでと違う雰囲気や教えに喜んだのです。洗礼者ヨハネは、確かに厳しいことを言いました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りから免れると誰が教えたのか。…神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」洗礼者ヨハネは、誰にでも裁きがくだるのだ、悔い改めよ、と呼びかけました。すなわち、どんな人でも悔い改めを必要とするのだ、と語っています。徴税人、兵士たちは、もともとどこかで自分の罪深さを感じていました。悔い改めのしるしとして喜んで洗礼を受けました。洗礼者ヨハネも、一緒にヨルダン川に入り、彼らを水の中に沈めてきたのでした。一方、ファリサイ派や律法の学者たち、祭司たちは、自分たちが悔い改める必要はない、と考えている人たちがほとんどでした。洗礼者ヨハネに人々が押し寄せれば、どんな人物だろう、と彼の様子を伺いました。また、ナザレのイエスがすごい、と人々が集まっていると聞けば、主イエスを評価しようとしたのです。しかし、そこでは自分の価値観を変えよう、とは思っていません。悔い改めよ、という声、福音を信じなさい、という声には耳を傾けないのです。これまでの自分は変わろうとはしない、変えようとはしないどころか、洗礼者ヨハネや主イエスを裁こうとしているのです。

笛吹けど踊らず
 そのような彼らに、主イエスが言われることは厳しいものがあります。
「あなたたちは、自分に対する神の御心を拒んだ」と言われます。あなたたちは、神に反する者たち、と断定します。
そして、「今の時代の人たちを何にたとえようか」と言われます。それは単にファリサイ派の人や律法の学者たちだけを指しているのではありません。主イエスを目当てに集まってくるすべての人たちを指しています。群衆は「風にそよぐ葦」のようなものです。主イエスが、人々を癒し、自分たちの思うような行動をするとなれば、その言葉に耳を傾けますが、主イエスが、裁きの言葉を語り、自分たちの思いを否定するようなことになれば、なかなか悔い改めるができません。これは、特別に悪い人がいる、ということではありません。律法の学者やファリサイ派の人々も、私たちとまったく違う種類の人間ではありません。今でも、人は自分の情報だけで判断するというよりも、誰かが言ったこと、書物に書かれていることなどを基本にして、考えたり発言したりします。わたしたちも、すべての情報を自分の力だけで集めることはできません。神による頼む、といいつつも、常識や一般的な価値観に左右されるのです。だからこそ、わたしたちはいつも福音の語る本当のところに聴き、また従うことが求められます。そこでこそ礎を築くのです。
主イエスは、福音を告げ知らせました。恵みによって生きる世界があることを、ご自分の身をもって示されました。ここでは、喜びの知らせを、結婚式ごっこをする子どもの姿になぞらえます。一方、洗礼者ヨハネは、悔い改めのための洗礼を示しました。全ての者が裁きから免れることはない、といい、荒れ野で質素な生活をしました。その姿を、お葬式ごっこをする子どもの姿と重ねます。そして、喜びの知らせ、みんなが楽しく踊れるように笛を吹いたのに、誰もおどってくれない、とがっかりしている子どもの姿、そして、悲しみの知らせ、悲痛な思いを伝えて歌を歌ったのに誰も悲しんでくれない、とがっかりしている子どもの姿と、当時の社会を重ねているのです。多くの人々は、自分のこととして洗礼者ヨハネのことも、主イエスのことも聴こうとしません。どこか高みにたって、「洗礼者ヨハネについては、あんな世捨て人のような生活をして、あいつは気がくるっている」と言い、主イエスについては「人々の中に入ってみんなと食事をしたり酒を飲んで大騒ぎをしている、あいつは徴税人、罪人の仲間、汚れた者の仲間だ」と言ってしまうのです。
今の社会もこのような様子と変わらないところがあります。悔い改めを迫る様々な出来事があります。東日本大震災もありました。豪雨や土砂くずれなど災害の激甚化があります。猛暑となり地球温暖化と無縁ではないと考えられています。そして、今疫病がこの世界を覆っています。何かが変だ、と多くの人は気づいています。一方、これまでどおりの経済活動が優先される世の中の方向が続きます。すべての経済活動が停滞すれば、多くの人たちの生活が成り立ちません。このままいくと九月には大変なことになる、と予測する学者たちもいます。
いろいろな情報がある中で、どうすればよいのか、よくわからないところにいます。
ただ、神は今、私たちに「葬式の歌を歌っているのに悲しんでくれていない。きちんと自分に向き合い悲しめ」と言われているように感じます。一方で、その絶望のどん底でこそ、互いに壁を作らないことが大切なのだ、なおそこで、響く喜びの歌、主が共にいてくださる婚礼の歌が響いているのです。
その婚礼の歌は、主イエスが何を目指していたのか、どこに行こうとされていたのか、を示します。主は、汚れた者とか罪人とかレッテルを貼って、自分だけは安全に過ごそうとすることを超える道を示されています。エフェソ書にあるように「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄され」(エフェソ2:14)たのです。
主イエスは、多くの罪人たち、汚れたとされた人たちと食事をされ、大酒を飲み、口泡を飛ばし議論したり、愉快に話をされました。それは、誰一人神の国から漏れないため、神の愛から離れていないことを示すためです。コンテキストはやや違うかもしれませんが、パウロが次のようにいうところとつながるような気がします。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマ14:17) 汚れた物を食べるかどうか、罪人・異邦人と食べるかどうかが中心ではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び。それが教会の交わりです。
物理的距離を保ち、物理的に密であることができない状態が続いています。しかし、それでも神にある近さ、どんな人も神との交わりから漏れないことを共に感じたいと思います。牧師や長老などの特定の人たちだけでなく、私たち一人一人に、主イエス・キリストの体としての居場所(存在するという役割)が与えられています。一人でいるように見えて一人ではない、苦難にあっても打倒されません。主が共にいてくださるので、絶望ではなく希望があります。その希望にささえられているからこそ、悔い改めの呼びかけを聞くことができます。そして、新しい生き方を示す歌を共に歌うことができるのです。

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