2021年8月1日 礼拝説教 平和聖日

聖 書
旧約聖書 ミカ書5章1-4節 (旧約p1454)
福 音 書  ルカによる福音書12章8~12節 (新約p131)

説 教 「聖霊が教えてくださる」 柳谷牧師

「イエスを知らない」と言う罪

主イエスは言われます。
「人々の前で、自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」(ルカ12:8-9)

人々の前で、主イエスの仲間だ、と言い表す機会は、どのような機会でしょうか。

あるいは、どのような時に、「わたしはイエスの仲間ではない、わたしはイエスを知らない」と言うのでしょうか。また、もし「わたしはイエスを知らない」と言ったなら、それは赦されないのでしょうか。

わたしたちは、聖書を通して、主イエスを知らない、と言った弟子の一人を知っています。

福音書では頻繁に登場してくるペトロです。

主イエスが捕らえられた木曜日の夜、弟子たちはみな逃げ去ってしまいましたが、ペトロは遠く離れて立ち、主イエスが大祭司の家に連れて行かれていくところを確認しました。さらに、その大祭司の家の中庭に入って、火がたかれていたところで、他の人たちと一緒に座っていたのでした。すると、ある女中がペトロに向かって言いました。「この人も一緒にいました」と。すると、ペトロは、「わたしはあの人を知らない」と言いました。しばらくして、他の人からも「お前もあの連中の仲間だ」と言われました。そこでもペトロは「いやそうではない」と言い、さらに別な人が「確かに一緒だった。ガリラヤの人だから。」と言うと、それも打ち消しました。(ルカ22:54-62)

ペトロは、主イエスとの最後の晩餐の場面で、「たとえみんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29、マタイ26:33)、「主よ、ご一緒なら牢に入って死んでもよいと覚悟しています」(ルカ22:33)、「あなたのためなら命も捨てます」(ヨハネ13:37)と言っていました。ペトロが大祭司の家の中庭まで来たのも、主イエスと共にいたい、という気持ちがあったと思います。命さえ捨てようという覚悟が他の弟子たちよりはあったと言えるでしょう。しかし、最後は捕まることを恐れたのです。主は既にペトロに「あなたは今日鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われていました。その予告通りペトロは、主を否定してしまったのでした。ペトロは鶏が鳴くと、主の言葉を思い起こして、とても悔いて激しく泣いたのでした(ルカ22:61-62)

主イエスは、ペトロの弱さをご存知で、ペトロがご自分を否定されることを赦されていたのです。主は、ペトロに「あなたのために、信仰が無くならないように祈っ」ていました。立ち直ったら、皆を勇気づけられると励ましていました(ルカ22:32)。

ですから、「主イエスを知らない」と言うことは、確かに大きな罪です。神との関係を壊してしまう罪です。しかし、ペトロを見てもわかるように、決して取り返しのつかない罪ではありません。

聖霊を冒涜する罪

主は続けて言われます。

人の子の悪口を言う者は皆赦される、と。

しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない、と。

主イエスの悪口を言ったとしても赦されます。しかし、聖霊を冒涜する罪は赦されないのです。

ペトロのことからも、たとえ主イエスを知らない、と言ったとしても赦されるでしょう。聖霊を冒涜することは、このこととは別のことだと考えられます。

主イエスは、ペトロに立ち直ること、信仰を失わないことを願っていました。たとえ、主の悪口を言ったとしても、主を知らない、と言ったとしても、その後が大事なのです。

ペトロは、主を知らない、と言ったことで大きな後悔をし、また涙を流しました。そして、復活の主に会うことが許されました。

神は、私たちが過ちを犯す者であることをよくご存じです。問題は、過ちを犯した後、どうするか、ということです。

聖霊は、真理を悟らせる霊であり、弁護者です。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えません(Ⅰコリント12:3)。また、聖霊によって、わたしたちは、神を「アッバ」(父よ)と呼ぶことができます(ローマ8:5、ガラテヤ4:6)。そのような聖霊の働きを冒涜するとは、どういうことでしょうか。

神は、義でありますが、愛です。功績やいわゆる能力のないものに目を留めてくださいます。過ちを犯したとしても、神に立ち帰るならば赦してくださいます。神は、悪人が滅びる事よりも、立ち帰って生きる事を望まれます(エゼキエル33:11等)。主イエスの悪口をいい、主イエスを知らないといって、最後に神の赦しを知らず、絶望したり、反対にますます傲慢いなっていくのだとすると、そこには救いはありません。滅びにいたるしかないのです。

主イエスは、十字架によって私たちの罪を明らかにされるとともに、その罪が赦される道を開かれました。罪赦された者として新しく生きる道を、すなわち復活の道を与えてくださっています。それは全くの恵みによるものです。そのことが信じられない時、わたしたちは自ら滅びの道を歩むことになります。主は、そのようなわたしたちに、赦しの光を用意されています。

主イエスの仲間

ここで、主が「わたしの仲間であると言い表す」ということを考えます。ここでの「わたしの仲間」とは、「わたしと同じことを言う」という意味です。仲間とは、同じことを語ることだ、と言われています。ただ言うことを真似るというのではなく、同じ思想、同じ思いを持って語ることです。

主イエスは、神の国の到来を宣言されました。主イエスは、当時の社会で罪人とされたような人々にも、神が共にいてくださることを語りました。あらゆる人が、アブラハムの子であり、神に愛されるべき人間であることを説きました。それはあらゆる差別を超える働きでした。それゆえに、当時の指導者たちから妬まれ、秩序を乱す者である、と断罪されたのです。

主イエスは弟子たちに「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:15)と言われました。主イエスは、ご自分が神から託されたことを弟子たちに知らせています。弟子たちは、主イエスが十字架につけられ復活されたあとになってようやく、主の真意が理解できたのです。わたしたちには、その弟子たちの働きを通して、御心に適う道が示されています。

今日の言葉は、迫害を前提としています。主イエスを信じるがゆえに、捕らえられ、権力者のところに連れて行かれるのです。その時、何を話そうか、と思い悩む必要はありません。私たちは既に主によって恵みの道、十字架の道を教えられています。この世は、自己責任を強調します。誰もがそれを当然としてしまいます。しかし、その生き方は他者を必要としない生き方です。もしある人が誰も他者を求めないのならば、その人は、他者からも必要とされない人となってしまうでしょう。

主イエスは、私たちが神の恵みによって生かされていることを示されました。それこそが共に生きる力となります。恵みによって生かされるからこそ、他者をまた自分を、能力や成果で評価しません。一人一人が存在していること自体が恵みであり、喜びとなります。神が示される個々人が大切にされる道です。

今日は「平和聖日」です。あらためて平和について考えさせられます。第二次大戦後、私たちの国は平和を希求する国家となったはずです。一部の人による政治ではなく、国民皆が政治に参加することができる民主主義の国家となりました。多数の暴力があり、ナチスもワイマール政権下で台頭したように、民主主義だからといって平和が守られるとは限りません。であるからこそ、平和を造り出すためには、一人一人が成熟することが必要です。神への信仰こそ、わたしたちに聖霊を注ぎ、成熟に導くのです。

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