2021年7月4日 礼拝説教

聖書

旧約聖書 イザヤ書58章6-9節       (旧約p1157)

福 音 書  ルカによる福音書11章33~36節  (新約p129)

説教「あなたの中にある光」 柳谷牧師

この世に対する視点

子どもの頃、漠然と未来は明るいものだ、と感じていました。私の幼少年期も公害があり、様々な社会的問題もありましたが、なんとなく人類の21世紀は明るいと思っていました。科学的な課題は必ず克服できる、と思っていましたし、民主主義だって発展すると思っていたのです。米ソの対立もありましたが、第三次世界大戦だって人間の叡智で回避できるに違いない、などと思っていました。子ども向けの科学雑誌か何かを見て、核分裂による原子力発電所はウランを輸入しなくてはなりませんが、核融合ならばトリチウム(三重水素)は海水から取り出せるとか、放射性廃棄物の問題も少ないなどと記憶し(本当はそうではありませんが)、核融合炉による原発の夢も見ていました。

そんな思いが崩れ去ったのは、大学に入ってからでした。チェルノブイリ原発事故のことから原発は決して安全ではないということを学び、広瀬隆氏の著作を通して仲間で学びました。首相の靖国神社参拝問題や在日韓国・朝鮮人に対する差別の問題から、戦争責任の問題についても考えさせられました。エイズなどもはやりはじめ、性の多様化についても考えさせられました。これまでの社会に責任はないけれど、20歳を超えてからの社会には責任がある、と考えつつ社会人になりました。東西ドイツの統一、ソ連の崩壊などにより平和への期待は高まりました。しかし、湾岸戦争、9.11テロ、イラク戦争などがあり、米ソ対立に代わって米中の対立が表面化しました。米国の軍産複合産業のことなどを考えても、世界は決して平和にはなろうとはしないのだと思わせられます。

大学卒業後30余年が過ぎ、その時は想像していなかった社会になりました。インターネットや携帯電話などの普及によって、誰もが情報を得られ、また共有できるようになりました。一方で、人と人とのリアルな結びつきは希薄になったかもしれません。またネットによる誹謗中傷はあとをたちません。格差は進み、すべり台社会と言われ、生きづらさを感じる人が増えたように思えます。日本でもとうとう大きな原発事故が起こりましたが、なかなか原発をゼロにする方向には向かいません。どこまで人間がいのちをコントロールしてよいのか、生命に対する科学技術の関わりも問題になっています。毎年、どこかで激甚災害があります。地球規模で環境問題を考えなくてはならなくなり、持続可能な社会になるように様々な方面で注意がなされています。現在の感染症の問題も人間の罪の問題としてとらえることもできます。今もわたしたちはバベルの塔を一生懸命建設しているのではないか、と思わせられます。

そんなにネガティブに考えなくても、良いことと悪いことは両面があって、それほど悲観することもない、という意見もあるでしょう。それに対して、私自身は、若い時にカール・バルトの言葉として紹介されたことが心に残っています。

「現実を見つめる際には冷徹に、将来を望む時は楽観的に」というような言葉でした。

それは、神にすべてを委ねるからこそできる態度であり、そうでなければ人間は悲観の中で押しつぶされ、安易な楽観をしてしまうからです。

パウロは「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ローマ8:18)と語りますが、葛藤をもちながらも、終末を希望するところに私たちはいるのです。

「いざ歌え」というクリスマスの讃美歌の原詞には” Welt ging verloren, Christ ist geboren:”(世は負ける、キリストは生まれる)とあります。世の価値観は崩壊するところに、キリストが誕生されたのです。

世の闇にあって、キリストは光として誕生されたのです。キリストは、世にあって神の愛を伝え、人を赦し、永遠の命を約束されました。教会はキリストの復活にあやかり、終わりの日の復活を信じ、新しい世界に生きようとしています。

あなたの中の光

そのキリストの光を伝えるために、わたしたちは教会となっています。

ですから、本日の聖書は、あなたはキリストの光を保っているか、と問いかけます。

誰もともし火を穴蔵や升の舌に置く者はいません。光は見えるように、また暗闇を照らすためにあるからです。

そして、その暗闇を照らす光があなたの中にあるかどうか、消えていないか確かめなさい、と促します。私たちの内にいつもキリストが住んでいるか、聖霊の宮となっているか、確かめなくてはなりません。

体のともし火は目にある、と語ります。

私たちにも、目が澄んでいれば心も澄んでいるという感覚があります。澄んだ瞳は、澄んだ心を現し、純粋さや無垢なものを現します。そのような純粋さが光として現れるのでしょうか。

イスラエルでは、「目が澄んでいる」というのは「気前がいい」という意味も持っているとのことです。

そうなると、それは単に純粋だ、無垢だということだけではなく、他者に対して気前がいい、ということになります。心が他者に開かれている、ということです。それは目が見えるか、見えないかに関わらないことです。

キリストを住まわせることは、他者に対して開かれる、自己を閉ざさない、ということです。

本日のイザヤ書が告げるところとも重なります。

松本教会の歴史の中で

 本日は、松本教会の創立記念の礼拝を迎えています。143年という歴史がありますが、日本社会の中でキリスト教は困難な状況と言われています。それは日本基督教団が特にそうだ、という人もいますが、カトリックの教会でも信者が減ってきていることは問題となっているようです。先日もある方とお話をしたら、今の若い人や多くの人は、宗教など関係ないという人が多いから、教会の将来は明るくないですね、と言われました。キリスト教を信じることが、もっと魅力ある事だったらいいのに、とも言われていました。

しかし、わたしはいつの時代だったら教会の将来が明るかったのだろうか、と考えます。

この教会の財政的なところを見れば、20年ぐらい前にピークがありました。現住陪餐会員や礼拝出席人数も60名を超えていました。しかし、その当時の教会が決して順風満帆だったわけではなかったと思います。

わたしは、岩手県の小さな町の教会で育ちました。教会員が20人もいない伝道所でした。なんとか教会堂を建て、会員20名を超えて教会となりましたが、今もその教会は決して人数が大勢いるというわけではありません。子どもも、わたしが小学校の低学年だったころは同級生も来てくれましたが、小学校も終わりぐらいになると、小学生のスポーツクラブができたりして、子どもたちは来なくなりました(それが1970年代後半のことです)。その当時から40年が過ぎ、かつて熱心に通っていた人が来なくなっていたり、経済的に支えていた人が天に召されてしまいました。それでも、新しいメンバーを迎えながら教会は存続していっています。大勢が魅力を感じることが大事なのだろうか、と思えます。

明治維新や戦後は、キリスト教は最先端の考えやハイカラな雰囲気を持っていて、多くの人々を魅了したのかもしれません。しかし、根本的なところでは、神を信じる喜びが人を突き動かしているのです。

松本教会は、信徒の働きから始まりました。横浜で入信した原田弥右衛門という人が聖書を販売しながら伝道をはじめ、手ごたえを得て、メソジスト教会が川邨天授牧師を派遣したのです。

わたしたちが、このキリストの光をどのように携えているといえるでしょうか。穴蔵や升の下においていないでしょうか。

何も皆が積極的に足並みをそろえて伝道しなければならない、ということを述べたいのではありません。

既に天に召されたM姉妹のことを思い出します。わたしがお会いした時は、認知症になっていましたが、教会を愛されていました。ある時彼女が「今の礼拝出席は何人ですか」と尋ねられたので「50人から60人の間です」と答えると、「まだまだですね。会堂一杯になることを祈ってますよ」と言われました。そのような祈りがこの教会を存続させているのではないかと思え、励まされました。

今年度の教会の年間主題は「み言葉に聴き、祈り、讃美する教会~神の家族として一つになろう」です。今日の詩編は「あなたの御言葉はわたしの道の光 私の歩みを照らす灯」と語ります。もし私たちに影があるなら、み言葉に聴くことからしか光は来ません。御言葉を聴くところから導かれて祈りに支えられ、喜びと讃美に満ちる教会となっていくのです。

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