2021年2月28日礼拝説教 受難節第2主日

聖書

旧約聖書 ヨエル書2章19節 (旧約p1424)

福 音 書 ルカによる福音書10章13~16節(新約p125)

説 教 「視点を変えれば」   柳谷知之

裁きの言葉とは?

本日の福音書は、裁きの言葉です。どこからこの言葉が出てくるかというと、先週の72人の弟子たちの派遣の出来事からです。72人の弟子たちが、村々に遣わされていきますが、彼らを受け入れない町があります。その場合に、主イエスは弟子たちに次のように言いなさい、と言われています。

「足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ」と。

さらに、かの日には、ソドムの方がまだ軽い罰で済む、と言われたのです。

その続きとして読むことができます。

主イエスの弟子たちを受け入れない町々として、ここではコラジン、ベトサイダ、カファルナウムが挙げられています。これらの町は、ガリラヤの町です。

ペトサイダやカファルナウムの名前は、他の箇所にも登場しますが、コラジンという町の名前はここにしか現れません。しかし、主イエスが伝道した町である、と考えられています。ガリラヤにはキルベト・ケラゼという廃墟があるのですが、その廃墟がかつてのコラジンで、他の資料などによると、かつてはかなり繁栄した町でした。

ベトサイダやカファルナウムが主イエスの活動の拠点であったように、このコラジンも福音書には描かれていないもののよく訪れた町だったのではないか、と考えられるのです。

「お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。」(13節)にあるように、主イエスはこれらの町で奇跡を行ったのでしょう。それでも、これらの町では悔い改めが起こらなかったのです。

主イエスが育ったナザレを訪れた時、人々の試すような反応に主は「預言者は故郷では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)と言って、そこでは奇跡を行うことさえもできませんでした。そこまで人々が不信仰ではなかったかもしれません。

一方、ベトサイダは漁師の町であり、ペトロ達漁師の出身地でもあった、とか、弟子たちをよく知っていたと考えられます。同様に、これらの町には主イエスだけでなく、弟子たちのこともよく知る人たちがいたことでしょう。主イエスを受け入れない、ということよりも、弟子たちを受け入れなかった、と考えるならば、この後の、「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」(16節)とつながります。

今日の箇所の前から見るならば、主イエスを受け入れない、ということが、ソドムやゴモラに対する裁きと比較されたり、シドンやティルスといったフェニキアの町と比較されたりします。旧約聖書で悪名の高いソドムといった町や異邦人たちのほうがましである、というのですから、聞いていたユダヤの人々は怒りを覚えたことでしょう。

また、9章で主イエスはサマリア人のある町で受け入れられなかったのですが、弟子たちが天から火を降らせましょうか、と言うと、それを戒められました(ルカ9:54)。主イエスは、いますぐの報復ということを望んではいません。

あくまでもこれはかの日の裁きを警告しているということです。

旧約聖書での神さまのイスラエルに対する警告もそのようでした。むしろ、選ばれている民であるからこそ、その裁きも厳しいものがありました。愛するがゆえに、厳しい裁きが語られるのです。神は熱情の神です。それは妬む神でもあります。神はそんな感情を持つことにつまずく方もいらっしゃることでしょうが、それほどまでに強く人を愛されているのです。人間が神に顔を向けないことは、神にとって大きな関心事であり、見過ごしになどできないのです。無関心ではいられないのです。

ですから、その神の熱情は、人間を救う方向に向かいます。独り子である主イエスを私たちの世に遣わされ、十字架につけるほどなのです。

ゆえに、これらの裁きの言葉は、悔い改めを促す言葉としてとらえなくてはなりません。もう裁かれている、だから何をしても無駄なのだ、ということではないのです。見方を変えれば、厳しい裁きの言葉は、神の熱情の裏返しなのです。

悔い改めるとは?

では、わたしたちはその裁きの言葉に脅されて悔い改めざるを得ないのでしょうか?

聖書は、裁きの言葉がたくさんあり、それに恐れおののくこともありますが、その真意は神の愛にあります。

厳しい言葉も、神がわたしたちを愛するがゆえであり、私たちを放ってはおくことはできないのです。

「そんな言い方でなくても」とも思うのですが、子どもが危ないことをしていたり、行ってはいけないほうに走っていったら「危ない!」って大声を出さざるを得ません。ときには力づくで押し倒すことだってあるでしょう。静かに言っていたのでは間に合わないことだってあります。

神の警告の言葉は、そこまで差し迫ったものなのです。

わたしたちが悔い改めるのは、神の脅しに屈するのではなく、その神の愛に応えるからこそです。

神の愛は、主イエスによって現されていますし、その愛から聖書を読み直してみるならば、新しい思いで読むことができます。

そして、悔い改めるというのは、もともとの意味には、向きを変える、視点を変える、ということがあります。

神のほうを向いて生きる、ということであり、わたしたちが見ている見方を一度考え直してみる、ということです。

「あの人はこうだ」「この人はこうだ」という他者に向けた見方だけでなく、自分自身についても「自分はこういう人間である」と決めつけてみることからも解放されます。

先日、茂木健一郎という脳科学者の話を聞きました。

「脳科学者の立場から見ると、障害というのはないに等しい」とのことです。「障害」ということでだめなことではない、ということです。「脳」の働きから見ると、「できないこと」と「できること」は紙一重と言っていました。ディスレクシアの人(文字の読み書き学習に著しい困難を抱える人)は、文字が読めないけれど、人の話を聞くことに長けているとか、聞いて覚えるという能力が発達するといったことも語られていました。

また「脳」はいつでも成長するとのこと。ですから、「もう年だから」とか「自分は能力がない」などと言ってあきらめないでほしい。「したい」「やってみたい」「やらなくてはならない」と思うことは何でもチャレンジしてみてほしい、とのことでした。これも視点を変える、ということの一つの例です。

わたしたちが壁や行き詰まりを感じているときほど、視点を変える、ということが必要とされます。

現代社会の問題においても、また個人的なことに関しても、視点を変えることで救われる問題もあることでしょう。新型コロナの問題に関しても、様々な問題は、以前からあった問題が噴出したにすぎない、と言う人もいます。また、必ずしも悪いことだけではなかった、といって、ある方は、「これまでの忙しさを見直すきっかけになった」とか、情報の発信の仕方についてもyoutubeなどで発信し始めた人が「もっと早くから発信すればよかった」などと言っていました。他にも視点を変えればいろいろあるのではないでしょうか。

あなたがたに耳を傾ける者

 ここまで述べながら最後の「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」によって、印象はまた変えられます。これらの裁きの言葉は、実は遣わされた者を励ます言葉だったのです。主の熱情の言葉、ご自分の弟子たちを愛するが故の言葉として見ることができるでしょう。

レントの期間は、悔い改めの期間です。

祈りによって、またみ言葉によって、主イエスをさらに身近に感じて生活してまいりましょう。

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