2021年3月21日礼拝説教

聖書
旧約聖書 
エレミヤ29章13、14 a  (旧約p1230)
 福音書 ルカによる福音書11章5~13節(新約p127)
説 教 「最も良いもの」   柳谷知之

本日の聖書の背景にあるもの

主の祈りに続いて、主イエスは、「祈ること」「神に願い求めること」の大切さを語られます。
そして、一つのたとえ話をされました。

それは、ある人のところに真夜中に戸を叩いて、パンを求めるものがいた、というところから始まります。真夜中ですので、頼まれた人は「明日にしてくれないか」と言うのですが、求める人はしつこく食い下がります。「友が真夜中に到着したのに、食べるものがうちにはないのです。パンを貸してくれませんか」というのです。そして、主イエスは、その人は「友達だからといって貸してくれなくても、しつように頼めば起きてきて、必要なものを与えてくれるだろう」と言われ、神さまに対しても、「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(9節)と言われています。

さらに、この話の最後では、主は聞く人たちに次のように呼びかけています。

「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている」と。

主イエスの言葉を聞く人々を、主イエスが勝手に「悪い者」と判断したとは思えませんので、この人々は、自分たちのことを「悪い者である」と思っていることになるでしょう。当時の律法主義的な社会の中で、正しくないものとレッテルを貼られた人々であり、彼ら自身も自分たちのことについて「俺たちはたいしたことない人間だ」「どうしようもない人間だ」と思っていたのではないかと考えられます。

そして、主イエスは、聞く人々が身近に感じるように話をされていたと考えられますので、最初の例えで登場する人々に対しても、聞く人々は身近に感じていたことと思われます。すなわち、真夜中に旅の友がやってくることを想像できる、ということでしょうし、さらに、その友達に食べさせるパンがない、という貧しい人である、ということも、「ああ、俺たちにもそんなことがあるかもしれない」と思ったことでしょう。逆の立場として「友よ、パンを貸してくれ」と頼まれる側として身近に感じていたともいえます。

この話を聞いている人々について、以上のようにに考えていくことができます。

求めなさい~祈りの本質

そのような人々に「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(9節)と主イエスは言われます。この言葉は新約聖書の中でも有名な聖句の一つではないか、と思います。そして、この話の聞き手たちは、主イエスの話を聞いて、「ああ、そうだ、俺たちのようなろくでもない奴でも、自分の子どもに良いものを与えようって思うんだから、神様だって俺たちのことを考えていてくださるに違いない」と思って帰っていったことができたのでしょうか。また、これを聞く私たちはどうでしょうか。そのとおり!  と思えるでしょうか。

「ああ、本当だ。その通り。神様は私たちの求めに対して、いつも与えてくださる」と、しっくりくるのでしたら、今日はここまでの話になります。

しかし、少なくともわたしにはしっくりこないものがあります。

なぜならこれまでに、求めたけれど、与えられなかったことがあり、探したけれど見つからなかったこともあり、叩いたけど開かれなかった門があるからです。それは私自身の不信仰の現れでしょうか?

そのように考えつつ、パウロが第二コリント書12章に綴っている祈りのことを想い起こしています。

「私の体に一つの棘が与えられました。それは思い上がらないように、私を打つために、サタンから与えられた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。ところが主は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。(Ⅱコリント12:7-9)

パウロの求めに対して、主は与えられなかったのだろうか、と。いや、パウロは主からの応えを聞いているのです。すなわち、パウロの求めに対して主は答えられ、恵みは十分であり、弱さがあってもそこに主の力が完全に働くことを伝えられているのです。パウロの求めを越えて、主は最も良いものを与えてくださったのです。

さらに、ニューヨークリハビリテーションセンターの壁に掲げられているという祈りも想い起こします。

病者の祈り

大事を成そうとして 力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった
より偉大なことができるように 健康を求めたのに
よりよきことができるようにと 病弱を与えられた
幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと 生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で 最も豊かに祝福されたのだ

詩人は、自分の祈りがことごとく聞かれなかったということ、求めたこととは逆のことしか与えられなかった、と綴りながら、最後に与えられたことが「心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた」という境地に達していて、自分自身を「最も豊かに祝福されたのだ」と告白しているのです。

自分の当初の願いどおりにいかないことがあっても、そこに御心があったこと、また神様から見て自分にとって最も良いものが与えられた、と知ることができたなら、それはとても幸せなことです。

聖霊の光に照らして見ると…。

それでは、自分自身にとって最善を知ることが、どうしたらできるのでしょう。

最後に、主は「求める者に聖霊を与えてくださる」と言われます。聖霊の働きは、不思議な働きかもしれません。初代教会の弟子たちのように、異言を語ったり、病人をいやしたり、奇跡を行ったりする力が、聖霊によって与えられるのだとするとすごいことです。「求める者」にそのような力を与えてくださることを主イエスは語っているのでしょうか。

そこで「聖霊」とは何か、ということになります。使徒言行録2章によれば、聖霊は「舌、言葉」として現れます。ペンテコステのときに、祈っていた主イエスの弟子たちには、炎のようにわかれて舌(言葉)が下ったのでした。それが聖霊です。

聖霊は、どんな出来事に対してもただ諦めるのではなく、そこに神の出来事がある、と知ることができる言葉です。最も大きな出来事は、何よりも主イエスの十字架です。主の十字架は、弟子たちの最初の求めから考えると絶望でしかありません。しかし、復活の主イエスは弟子たちの真ん中に立って息を吹きかけて言われたのです。「聖霊を受けなさい」(ヨハネによる福音書20:22)と。それは罪の赦しのみ言葉に通じます。

主イエスの言葉を心から聞きたいと願う多くの人々は、貧しく、理不尽な思いをしていました。自分の人生の価値を見出せない人々が大勢いました。その彼らに、「あなたがたにも神の力が与えられる。聖霊を求めなさい」と主は、励まされるのです。それは、今日のエレミヤ書にも通じます。「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(エレミヤ29:13-14)と。

聖霊の光に照らして見るならば、残酷な十字架の出来事にも、神の愛と赦しを見出します。その十字架と復活のみ言葉によって、わたしたちはあらゆる出来事において御心を見出し、最も良いものが与えられていることに気づいていくことができるのです。

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