旧約聖書 エゼキエル書18章21~23節 (旧約p1290)
福 音 書 ルカによる福音書23章56節後半~24章12節 (新約p159)
説 教 「甦られたキリスト」
イースターおめでとうございます。
2月26日からレントの期間がはじまりました。
新型コロナウィルスの感染が蔓延しはじめました。世界各国での報告において、医療崩壊している国や地域に驚くだけでなく、それは明日の日本なのかもしれない、と思わざるを得ないものです。
オリンピックが延期になったとたん、首都圏での感染者が急激に増加し、それ以降、連日、全国で感染者が報告されています。大都市圏で緊急事態宣言がなされ、それに伴って各県、長野県においても感染拡大地域への往来の自粛要請がなされています。ウィルス対策は長期戦となり、変化する状況に対応する必要を感じています。
レントの期間が終わり、イースターとなりましたが、世界の苦難はまだ始まったばかりなのかもしれません。カミュの『ペスト』がまた読まれ、ベストセラーになっている、とのことです。
歴史は繰り返し、先人たちの知恵にすがりたい、という人の思いもあるのではないか、と考えさせられます。
そのようなときに、イースターを迎えています。
まだなお重くのしかかる暗い影を感じている時です。
しかし、このような時だからこそ、み言葉に聞きたいものです。
神の言葉から示される希望を分かち合いたいものです。
さて、主イエスが十字架で殺されました。アリマタヤのヨセフが主イエスの亡骸をひきとって、まだ誰も納めあれていないお墓に納めました。翌日が安息日であったので、女性たちは安息日明けの日曜日まで待ってから、主イエスの遺体に香料を施そうとしていたのです。
実際、日曜日の朝早く女性たち、ここで名が記されているのは、マグダラのマリア、ヨハナという女性、ヤコブの母マリアとほかにも女性の弟子たちがいたことが示されています。
彼女らは、主イエスのために行動しました。日曜日の朝早くでかけて、お墓にいって、主イエスの亡骸に香料を塗ろうとしたのです。それは、遺体の腐敗を遅らせる効果がありましたし、何もしないで愛する主イエスの遺体が朽ちていくことをよしとしなかったからでしょう。
しかし、彼女たちが墓についてみると、墓をふさいでいた石がわきに転がされていて、主イエスの遺体はなかったのです。彼女たちは困惑しました。しかし、不思議なことに輝く衣を着た若者が二人いて、主イエスがよみがえられたことを告げたのでした。主イエスが、十字架につけられ、復活することになっていたではないか、と彼女たちに思い起こさせたのです。
そして、ルカによる福音書では、女性たちはそのことを信じて、喜んだのでした。そこでは、まだ誰も復活した主イエスに出会ってはいなかったのです。
彼女たちは、さらに男性の弟子たちのところに行って、このことを告げますが、誰も信じようとはしませんでした。ただ、ペトロだけが空の墓を確かめに行ったのでした。ほかの弟子たちは、おそらく自分たちも捕まるのではないか、と恐れて、外出できなかったのでしょう。しかし、ペトロはここでは勇気を出して、お墓まで行ったのでした。
そして、彼自身は、主イエスの遺体を包んでいた亜麻布を発見しただけだったのです。
ここで、マグダラのマリアはじめ女性たちが、主イエスの復活を信じたことに注目します。
他の福音書、マルコによる福音書では、女性たちは恐ろしくて誰にも話をいえなかった。ヨハネによる福音書やマタイによる福音書では、マグダラのマリアは主イエスに出会っています。しかし、ルカによる福音書においては、女性たちは主イエスに出会うことなしに、主の復活を信じたのです。
それは、ガリラヤにおいて、主イエスが言われた言葉を思い起こしたからでした。
女性たちが主を信じることができた、それは、主を愛していたからだ、といえますが、それ以上に、主イエスの愛を信じたからに違いありません。
マタイやヨハネは、具体的に主イエスの言葉、よびかけがなされます。
ルカによる福音書は、そのよびかけはないのですが、そこで、主イエスの言葉を思い起こすことで、主イエスの愛を思い起こしたのでしょう。
高森草庵の押田成人神父(1922-2003)は、祈りについてこう語ります。
~祈り―ひとりごとと何が違うのか。ひとりごとであっても、実は自分自身との対話があり、向かう対象がある。そのとき、言葉は意味を持つ。ところで人間は、言葉や行いが深くなればなるほど、或るはっきりした向かってゆく対象を持つ。どんな人でも誰かにむかって「あなた」と呼びかけるようにできている。この呼びかけが、最も充足したものとなるとき、それは愛を伴う。その呼びかけの最後の端的な形が「わたしはあなたを愛する」という呼びかけであり、最後の端的な受納は「あなたは私を愛する」という呼びかけの受納。これは人間の幸福の根本的基本構造。人間にとって、このあなたが神さまであるとき、本当の最後のよびかけとなる。祈りは、最も深いところでなされる~
わたしたちにとって、復活した主イエスとの対話が、聖書の言葉を通して、そのような深いところでなさあれるとき、より深く「主は生きておられる」という確信をもって生きることができるのでしょう。
さらに、その主が、わたしたちに永遠の命、永遠の住処を約束してくださっているのです。今の私たちの肉の命が滅びたとしても、それを越えて与えられる「新しい命」が与えられるのです。そのことを、身をもって示されたのがイースターの出来事です。
その「新しい命」を信じて生きるときに、私たちは、この世界の十字架に向き合いつつも、その恐ろしさに押しつぶされることはありません。そして、その「新しい命」に生きる者が、世界が、呪いや悪魔によって支配されているのではなく、神の愛の支配にあることを賛美するものと変えられるのです。
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