聖書
旧約聖書 ヨブ記16章19節 (旧約p796)
福音書 ルカによる福音書6章43~45節 (新約p114)
説 教 「心が現れる」
「花を咲かすこと」と「実を結ぶこと」
人生の目的というときに、日本の社会の中で、「花を咲かせること」に重きが置かれていると感じることがあります。努力が実り、成功するという意味で「大輪の花を咲かせる」という表現もあります。小さくても、目立たなくても、一人一人が自分の花を咲かせる、ということが大切だ、と言われることもあります。
もうひと昔前になってしまうのですが、「世界でひとつだけの花」という歌がはやりました。
「そうさ、僕らは/世界にひとつだけの花/一人ひとり違う種を持つ
その花を咲かせることだけに/一生懸命なればいい」
という歌詞が、テレビドラマのエンディングで流れてきたときには、いい歌だな、と正直思いました。誰もが違うのだ、ということ、No1を目指すことばかりに追われるのではなく、誰もが世界で、宇宙で唯一無二の存在であることが歌われていると感じたからです。
また、「花を咲かす」ということで思い起こすのが、3.11東日本大震災後に生まれた「花は咲く」という歌です。仙台出身の映画監督 岩井俊二の作詞、同じく仙台出身の音楽家、菅野よう子の作曲で、NHKなどで繰り返し流される曲となりました。
「花は 花は 花は咲く/いつか生まれる君に/花は 花は 花は咲く/わたしは何をのこしただろう。」というリフレインが印象的です。また、その花が咲く、ということが、悲しみや苦しみ、むなしさを超えて、未来に向かう希望を表していて、多くの人の心をとらえているのだ、と思います。
聖書の世界でも、「荒れ野よ、花を咲かせよ」(イザヤ35:1,2)と、神の栄光が現れる喜びが表されています。
しかし、花が表現するところの多くは、はかないものの象徴として語られています。
「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。」(詩編103:15)
「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ40:8)
「明日は炉に入れられる野の草(花)でさえ」(マタイ6:30) など、空しい存在として語られているところがあります。花は、その時限りのものだからです。しかし、その先に実を結ぶことに、重きが置かれているのです。もちろん、実を結ぶためには花が必要です。しかし、花の華やかさばかりに気をとられていて、肝心の実を結ぶことがおろそかにされている、ということが、神の前に立ってどうなのか、ということが問われます。
そして、花はしおれ枯れてしまうけれど、実を結ぶことができるならば、それが神の祝福である、ということになります。花に注目するのではなく、実に注目するのです。
主イエスは、さらに「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)と言われています。自分の実を守るのではなく、捨てることによって、多くの実が結ばれるのです。その意味で見るならば、「花」は自己中心的なものを表します。また、本来、花は、自分だけで咲くことはできず、他者の力をかりるものです。そして、神の力なしには植物は成長させられないのと同様、神の力を受けて、人は成長させられ、花を咲かせ、実を結んでいくのです。
そして、神は、その実を見られる方です。実は、行いと考えられるところもありますが、目に見える「行い」以上のことを指しています。たとえ目立たなくても、また忘れ去られたとしても、その実を見ていてくださる、というのは、華やかな面だけに捉われるな、という戒めであると同時に、神は人が見ていないことを見ていてくださるという点で救いでもあります。人が生きた証を「実」と考えると、人の世に現れないところで実りがあることが多いからです。人が気が付かないところ、人が忘れてしまうところ、また人の命が終わったところにも、「実」は現れるからです。歴史においても、教会の歩みにおいてもそうです。様々な事業においてもそのことを見ることができるでしょう。日常生活の中で、わたしたちは誰が最初に考え、受け継いできたかわからないような料理を味わい、誰が作ったか知らない道路を歩いています。同じように、わたしたちも自分がしたことについて、自分の手を離れて人のため、社会のためになっていることがあるのだ、ということを見ることができます。ですから、わたしたちは、咲いた花に一喜一憂するのではなく、知らないうちに実を結んでいることに自他ともに注目するべきではないか、と考えさせられます。
実によって木を知る
さて、主イエスは、その実について、一見、厳しいことを語られます。
悪い実を結ぶ良い木はない、良い実を結ぶ悪い木はない、と言われ、善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを取り出す。悪い人は、悪いものを入れた心の倉から悪いものを取り出す、と言われます。
なぜ、わたしにとって厳しく見えたか、というと、それが決定論的だと感じたからです。悪い人は、もう悪い心で、悪いものしか出てこない、という風にしか読めなかったら、悪い人は変えようがなく、絶望的に思えるからです。あの人は良い木で良い実をむすぶ、わたしは悪い木だからもうだめだ、ということになってしまうのです。
しかし、悪い人が根から悪い人ではなく、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出すにすぎないのです。
その前に、主イエスは言われます。
「茨からいちじくは取れないし、野ばらからぶどうは集められない」
人それぞれを木に例えれば、その木にふさわしい実をむすぶものだ、と。
あなたは、自分を茨や野ばらのようなものと考えているかもしれないが、本当はいちじくやぶどうではないか。このように語られているように思えます。
にもかかわらず、そのいちじくやぶどうが現れてこない、実っていないのは何故なのか。
ですから主イエスは「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と言われます。
実らないのは、あるいは実りがみえないのは、一人一人が、本当に心からあふれ出ることを語っていないからではないか、と主イエスが言われているのではないでしょうか。
心からあふれ出ること
「心からあふれ出ること」について思いめぐらしながら、それは良心に従うこと、と言ってもよいと感じています。そして、その良心は、神から与えられた共通の意識、考えです。そして、神を知る、知らないに関わらず、その心に律法が与えられているということによっても、一人一人に良心があることが示されています(ローマ2:15)。
良心に従いえないとき、人は悪い実を結んでしまうのです。
例えば、このところずっと問題視されている森友学園に対する国有地払い下げの問題とその証拠文書の改ざんの問題について考えさせられます。
いわゆる森友問題に関して、ある一人の公務員が、政府の命令に従って証拠となる書類の改ざんをさせられました。それは、その人の公務員としての良心に沿わないものでした。その方は「私の雇い主は日本国民。国民のために仕事ができる国家公務員に誇りを持っています」と自負していました。しかし、その誇りは打ち砕かれ、多くの労力を費やして行った改ざんについて、とんでもないことをしてしまった、という思いがあり、また検察の手が自分に及ぶかもしれない、という恐怖が、心身の調子を狂わせました。心からあふれ出ることを語りたかったのに、またその思いを認めてほしかったのに、その思いを抱えて彼は自殺してしまいました。その遺書が公にされて、彼の悲痛な思いが明らかにされました。
自分の心からあふれ出る思いに従いえなかった悲惨さと、人の良心を踏みにじる権力の横暴さを感じさせられる出来事です。なお、このことは裁判が始まっています。
一方、私たちの中には、自分の内側から沸き起こったというだけでなく、それが神から示されたとしか思えないことが時々あるように思えます。
先日、音楽家の三澤洋史(ひろふみ)という方のエッセーを読みました。『ちょっとお話ししませんか 祈りと音楽の調べにのせて』(ドン・ボスコ社)です。カトリックの信者であり、新国立劇場合唱団の首席指揮者で、他にも様々な楽団の指揮者・作曲者として活躍されている方です。その方が、自分の信仰と音楽について語っています。
著者は、建築家の家に生まれ、音楽や宗教とは無縁でした。また、家に神棚、仏壇はあったものの、両親はあまり宗教心がないようでした。小さい時に「人間は死んだらどうなるの」という質問をしたところ「死んだら何もなくなるの」という答えしか聞かなかったのです。音楽に特別な興味を持つようになったのは中学に入ってからでした。吹奏楽部でトランペットを担当するようになり、クラブ活動に精を出すとともに、ギターにも関心をもちました。教則本を買ってもらい、独学で学びました。曲のコードを学び、さらにそれが鍵盤でも応用できることに気づいていきました。そして、さらに大人たちのバンドに加えられたりして、やがて、高校1年の頃には、音楽大学にすすみたい、という志をもったのでした。
一方、親からは建築業を継いでほしい、という期待がありました。最終的に家出して音楽大学に進学したのです。
三澤さんは、なぜ自分に音楽が解るようになったのか、どうして音楽をすることができるようになったのかは、わからないが、才能とは神から無償で与えられるものなのだろう、と思っています。
そして、三澤さんは、自分の心からあふれ出ることに従って、音楽家への道を進み、ドイツ留学をしているときに、ようやく両親とも和解できました。
一方で、それが独りよがりや自己陶酔になることへの注意をしています。
音楽に対する取り組みの中で、「究極の自己表現」は「自分を無にして人のために尽くすこと」によって実現する、と語っています。
心からあふれでること、その実が真実のものになっていくのは、自分を誇ることにではなく、他者と共に生きることによってではないでしょうか。それは、わたしたちにとって、主を誇り、主を讃美することにつながるかどうか、自分を愛し、隣人を愛することにつながっているか、によって検証できることです。
信仰の世界とのつながり
また本来、心からあふれでることは、人を楽しく生かすものです。三澤さんは、音楽家として楽しんでいいじゃないか、といい、人生は幸せになるためにある、と言い切ります。
一方、「私はこの世で生きる価値があるのか?」というのは悪魔の誘惑です。「この世に生きた足跡を残すことができるのか?」これこそ傲慢です。わたしが現にこの世にいるのだから、それは神に存在をゆるされた証拠です。三澤さんは、要は、そのゆるされている人生のなかで、自分の心がワクワクしながら生き切るか、であると言い切り、結果はあとからついてくる。無理やりでも、やけっぱちでもいい。「ありがとうございます」といっていればいい、というのです。感謝できないことにも、感謝する姿が描かれています。
「長い時がたち、あなたは、ふと振り返る。するとあなたの後ろに過ぎ去った長い道のりがある。良かったこと、悪かったこと、うれしかったこと、苦しかったこと。失敗したこと、有頂天になったこと…それらすべてがあるから、現在の自分があることを知る。
そして、もう一つのことにあなたは気がつく。そんなあなたの道のりに、神がいつも寄り添っていて、母親のように、あなたの失敗も成長も、地合いのまなざしで見つめ続けてくれていたことを。それらすべての道のりに感謝する。すると、過去のすべてが輝き始める」
良い実を残すか、悪い実を残すか、わたしたちの信仰生活、人生の果実にもつながることです。誰でも、良いものがはいっている倉から良いものを取り出すことができるのです。