聖 書
旧約聖書 ゼファニア書3章16-17節(旧約p1474)
福 音 書 ルカによる福音書9章28~36節 (新約p123)
説 教 「栄光に輝く主」 柳谷知之牧師
遂げようとしている最後
主イエスは、弟子たちにご自分が苦しみにあって、ユダヤの長老や祭司長、律法学者たちから排斥され殺される、そして復活される、という話をされました。そして「自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。」と言われました。
それから、8日ほどたった時、と今日の福音書は告げます。1週間の日々が一巡りした後ということです。主イエスは祈るために山に登られました。このときは、弟子たちの中で、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを伴いました。
そして、祈っている間に、主イエスの顔の様子が変わり、着ている服が白くなって輝いたのでした。
さらに、モーセとエリヤという旧約を代表する預言者が現れて、主イエスと語り合っていたのです。
その話の内容は、主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後についてでした。
それは、既に主イエスが弟子たちに話をされた十字架の最後ということです。
このところを、原文(ギリシア語)に従って、注意深く見ていくと、興味深いことが記されています。
まず。
「遂げようとしておられる」という言葉は、「成し遂げる、成就する」という意味の言葉が使われています。
すなわち、主イエスは、ただ最後をエルサレムで迎える、ということではなく、ここにモーセとエリヤが一緒に現れたということを見ても、旧約時代に約束されていたことの成就がなされようとしている、ということになります。
主イエスの最後は、神のご計画の中にある、ということです。そして「最後」と訳されている言葉は「エクソダス」という言葉です。ある英語の訳では「出発、旅立ち」と訳されています。
もともとは、旧約聖書でモーセが人々を導きエジプトを脱したことと結びつく言葉です。「道の外へ」「道を出る」という意味から、「旅立ち」や「死」を意味しています。
「イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最後」は「イエスがエルサレムで成就しようとしておられるエクソダス」と訳し直します。このエクソダスは、直接的には旅立ちで、モーセと結びつけると「エジプトでの奴隷からの解放」「出エジプト」です。それが私たちにとっては主イエスによる「罪からの解放」を指し示しています。ただ単に、主イエスの最後というだけでなく、わたしたちにとっての「罪の支配からの解放」を意味するのです。また「出発」という意味で考えると、「復活」「永遠の命」への旅立ちとなります。
その意味を込めてこの部分を訳すと
「イエスがエルサレムで成就しようとしておられる罪からの解放」「永遠の命への旅立ち」ということになります。そして、それは、主イエスの死、十字架の死そして復活を暗示しているのです。そのことを主イエスは、モーセとエリヤと語り合っていたのです。
モーセとエリヤ
モーセとエリヤは旧約を代表する預言者です。特にモーセは律法を表します。また、エリヤは生きながらにして天に上げられたということで、終わりの日の救い主としてのメシアが来る前に再び遣わされる預言者でした。その二人が主イエスと語り合っている姿。それが、この世のものとは思われないようなまばゆい輝きをもっている、という姿をペトロ、ヤコブ、ヨハネは見ました。ひどく眠かった、というのはどこか現実を離れた出来事であるように思えます。
そして、二人が主イエスを離れようとしたときに、ペトロは思わず
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。
ひとつはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言ってしまいました。
ペトロは、なんとかそのまばゆいばかりの光景をとどめておきたかったのです。自分でも何を言っているのかわからなかったぐらい興奮していたことでしょう。
それほどに、主イエスと偉大な預言者二人が互いに語り合っていることが、素晴らしくこの三人をここにとどめておきたい、と思ったのです。
山を降りる
しかし、その素晴らしい光景はまぼろしのように消え去りました。密雲がたちこめ、その中から声が聞こえます。(密雲は神のおられる場です)
「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」
そして、主イエスだけが残されたのでした。モーセやエリヤは立ち去ったけれども、主イエスだけは立ち去らず弟子たちと共にこの現実の中に残ったということです。
モーセ、エリヤという偉大な預言者が姿を消したあと、神の声が聞こえました。
「これに聞け」と。
主イエスが神に選ばれた者です。すなわち、偉大な預言者ではなく、神が選ばれた者に聞け、と言われています。旧約からの歴史は主イエスにつながり、神の救いのご計画は主イエスによって成就するのです。ですから、主イエスに聴くことが、救いへと向かう道です。
そして、彼らは山を降りることになるのです。
至福の時と現実
山を降りる、ということは、山上での至福の時に別れを告げることです。神と共にいる幸せ、神々しい出会いや体験というものがわたしたちを導くことがあります。しかし、それは永遠に続くものではありません。いつかはそこに終わりを告げます。反対に現実の中で、主イエスのあとに従い、自分の十字架を負わざるを得ないのです。
祈るために山に登るというのは、礼拝の時と考えてもよいでしょう。この世の価値観と全く違うひと時、世の楽しみとは異なる奥深さ。礼拝の体験によりわたしたちは神との出会いを経験します。しかし、そこにとどまることは、今はできないのです。また現実の中に帰っていかざるをえません。
「山を降りる」ということで、かつて読んだ『魔の山』(トーマス・マン)を思い起こすことがあります。主人公のハンスは、結核の従弟を見舞いに山の中腹にあるサナトリウムに行ったのですが、自分自身も結核であることが分かり、そこで療養生活に入ります。そこで様々な哲学的議論をしたり、恋をしたりするのですが、それは病気であるということを除けば、至福を思わせる時間でした。その彼を戦争が目覚めさせます。彼は山を降りていきました。青年期のいわゆるモラトリアム(猶予期間)と言われていたような時期に読んだ本でしたが、その後、神学校に入った時にも、『魔の山』と神学校を重ねたものです。そこには浮世離れした楽しさがありました。学問や議論をするという充実した時間があったからです。
しかし、そのようないわゆる「山」の生活は続くものではなく、わたしたちが生きる場は違うところにあるのです。現実とは異なる理想を持つこともあるでしょう。夢や幻がわたしたちを生かすこともあります。
しかし、主イエスに従う道は、地上の生活の中に与えられています。地上の生活の中で、天の道が開かれているのです。悩みながらも、自分の十字架を負って生きる道が与えられています。十字架の道は、信仰者でなければ、気づきえなかった道であり、神を信じるからこそ、苦難を神のご計画にあるとする道です。
その十字架の道に、主イエスがいないならば、むなしくつらいだけで終わってしまいます。しかし、主ご自身が、わたしたちに先立って十字架の道を歩まれました。今もわたしたちが自分の十字架を負うところで、主は共にいてくださり、永遠の命へと向かう道を備えてくださるのです。
「山」に登り神との至福のとき、祈りの時を持つことは必要です。しかし、そこにとどまってばかりいることはできません。山を降りて歩む道にも、主イエスだけは残ってわたしたちと共にいてくださるのです。世に派遣されるわたしたちと共にいてくださるのです。