聖 書
旧約聖書 イザヤ書2章4節(旧約p1063)
福 音 書 マタイによる福音書24章36-44節 (新約p48)
説 教 「眠っていないで」 柳谷知之牧師
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組があります。
5才という設定のチコちゃんが、普段当たり前すぎて疑問にも思っていないことを尋ねます。
例えば、
どうしてパンダは白と黒なの? とか、どうして桜は一斉に咲くの? あるいは、ラーメンの「ラー」って何? といった質問が出されたりしました。
その回答者が答えられないときにチコちゃんが顔を真っ赤にして「ボーっと生きてんじゃねーよ!」って叱るのです。
その「ボーっと生きてんじゃねーよ」という言葉の英訳は次のようになっています。
“Don’t Sleep though life”
これは意訳とのことですが、眠ったように生きていないで、ということでしょうか。
この言葉を見た時、主イエスが言われた「目を覚ましていなさい」ということに通じるように思えました。
今日の聖書箇所ではありませんが、ルカによる福音書でゲッセマネで主イエスが祈る場面で、弟子たちに一緒に祈っていてほしかったところで、弟子たちは眠りこけてしまいました。そのときに、主イエスは「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われました(ルカ22:46)。
今日の聖書箇所もまた「目を覚ましていなさい」と言われます。
その日その時がいつ来るかわからないから目を覚ましていなさい、というのです。それはチコちゃん風に言えば、「ボーっと生きてんじゃねーよ」ってことになります。もちろん、なんでも知っていなければならない、という意味で、主イエスが言われるのではありません。(ボーっとしていてもいい時もあると思います…)
主イエスは、この世の終わりの日が来る、その時はいついかなる形か、誰にもわからない、神にしか分からないことだ、ということで、その日に備えていなさい、という意味で語られるのです。
その時について
さて、「その日」とはどんな日を指しているのでしょうか?
使徒信条において、わたしたちは、主イエスが天に昇り、神の右に座しておられること、そして「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」と告白しています。また、日本基督教団信仰告白においても「主の再び来りたまふを待ち望む」と告白します。主イエスが天より再び来られて、いわゆる最後の審判を下すのだ、というのです。最後の審判というのは、とても恐ろしいことのように思えます。
今日の聖書においても、それはノアの時と同じだ、とノアの箱舟と重ねられます。その時は、この世界が洪水によっていったん滅ぼされた、という出来事と重ねられています。そして、畑にいる人のうち一人は連れていかれ、臼をひいている人のうち一人は残され、一人は連れて行かれる、というのです。二人のうち一人は、いなくなってしまう、というのは恐ろしいと感じます。
この後の福音書でも、主人がいつ帰ってくるか分からないからちゃんとしていなさい、と語られ、マタイの25章も世の終わりすなわち終末のたとえを語ります。
そして、これらを見ると「目を覚ましていなさい」ということは、滅びに至らないように、という脅しともとれるような感じがします。
終末が語られるとき、どこかでちゃんとしていなさい、目を覚ましていなさい、眠ったように生きていてはいけない、ということが語られます。
9月に教区の伝道協議会があったときに、講師がキリスト教の時間は直線的で、日本の自然をベースにした時間間隔は循環だ、と言って、循環する時間間隔は、山手線で、直線的なのは中央線だ、と大木英夫氏(神学者 聖学院大学前理事長)の言葉を引用していました。山手線は寝ていても元に戻るけど、中央線はそういうわけにはいかない、目を覚ましていなければいけない、というのです。
それは終末を意識して、緊張感をもって生きることを示した良いたとえに思えましたが、一方、うかうか寝てもいられない、休んではいけない、というメッセージや、乗り過ごさないように、という恐れを伝えてしまうことにもなります。
それが本当の終末の出来事を表すのか、となるとそうとは言えません。
なぜなら、世の終わりの出来事は、最後は希望と慰めの出来事だからです。それは大きな喜びでもあります。
その希望と慰めとして森有正は、次のように語ります。
「今に世界の終わりが来て、キリストが天から降りてくるのですよ。その時になって、無名のものを迫害した悪い奴は滅ぼされるのですよ。こんなこと私が言っても誰も信じないですけれど。」と。
このことに慰めを感じるのは、義に飢え渇くものであり、理不尽な思いを持ったものです。迫害される側あるいは迫害される側に共感する立場の者であるとすれば、ここに慰めと希望を持つことができます。
しかし、ここで私は、自分は滅ぼされる側ではないか、と思ってしまうことがあります。無名のものを迫害した悪い奴より悪いのではないか、迫害を黙って見過ごした罪があるのではないか、と。戦争や世界の飢餓に加担していないか、と。もっと卑近な例でも他者をないがしろにしなかっただろうか、と。
アドヴェントとクリスマスの意義
そこで、最後の審判を迎える前に、私たちに主イエスが与えられていることを思い起こさなければなりません。
トーマス・マートンというアメリカのカトリックの修道者は
主イエスの降誕に関して、神が人となられたことは、「宇宙的宝くじにでもあたったようなニュースと感じる」と述べています。主イエスによる救いの出来事、わたしたちの罪の赦しの出来事は、その「宇宙的宝くじ」にあたったという知らせだと考えてよいでしょう。完全にそれがあきらかとなり実現するのは世の終わりのキリストの来臨のときなのです。
アドヴェントとクリスマスの時期は、その「宝くじ」に当たっているのだ、という知らせを再確認するときです。
その当選した宝くじの賞金(完全な罪の赦し)を受け取るときは近づいています。主イエスが来られてから2000年の時が過ぎました。世の終わりと思える出来事も多々あります。その都度、この世界は絶望的になります。しかし、わたしたちには主イエスの来臨という希望があるのです。この世のすべてを正し、またわたしたちが罪なき者として新しく造りかえられるという希望です。
ある牧師たちは次のように語ります。(『教えてパスターズ‼』キリスト新聞社)
「終末を考えることは、世の人が考えるような恐ろしいことではなくて、やっぱり自分自身の完成でもあるし、世界の完成でもあるし。そういう神さまが与えてくださる希望のビジョンです。」
「僕らは、キリストの花嫁です。完成の希望の日は、楽しみな結婚式の日だ」と。
「この地上で、僕らはイエスさまと、やがて婚宴に向かっていく恋人のように生きていくものではないか」と。
アドヴェントもまた、その待ち望むということの訓練であり、忍耐を学ぶ時です。しかし、その後に、大きな喜びがあるのです。その喜びの大きさが表現されるところがクリスマスです(毎年のクリスマスは、終末のキリストの再臨の予行演習なのです。もっとも人間が考えうる喜びをはるかに超える喜びが最後には用意されていると考えられますが…)。
コロナ禍であったり、なかなか教会に来ることができない人も多いことでしょう。しかし、お一人お一人が、主イエスと恋人のように生きていくことがアドヴェントです。それは「赦された罪人」として生きることです。それが「目を覚まして生きる」「眠ったように生きない」ということなのです。