聖書
旧約聖書 イザヤ書7章14節(旧約p)
福 音 書 マタイによる福音書1章18-23節 (新約p1)
説 教 「救いはここから」柳谷知之
待つこと―耐え忍ぶ力と希望
この一年を振り返ると、わたしたちの生活を一変したコロナウィルスのことをまず考えてしまいます。いったいこの疫病からの出口はあるのか、何の意味があるのか、と問う中で、ネガティブ・ケイパビリティという言葉が注目されている、ということを聞きました。以前、南部先生が紹介してくださった帚木蓬生という作家で医師が著した『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』を改めて読み直しています。
帚木蓬生は、この「ネガティブ・ケイパビリティ」ということが、今の世の中に必要だ、と語っているのですが、誤解もいろいろあるようです。わたしは今また読み返しながら、結局は耐え忍ぶ力だと思いました。また、それはすぐに結論を出さなくても、保留にして待つ力です。
治るか治らないかわからない病気のとき、災害にあってなかなか日常が元通りにならないとき、早く進んでほしいことが思うようにはいかないとき、じっと見守る力であり、耐えていく力の必要性はあると感じています。
コロナ禍にあって、ある人たちは、すっかり元のように戻るには3~4年が必要だろう、と言っています。もしそうだとすると、それまで、どう耐え忍ぶのか、ということです。
かつて、東日本大震災後の釜石を訪ね、仮設住宅にお邪魔したことがありました。復興住宅がだんだんと立って仮設住宅は減ってきましたが、それでも今年の3月時点で、釜石には1000戸を超える仮設住宅が残っていました。震災から10年が経とうとするところで、まだまだ終わっていないことがあります。また、昨年の長野市で起こった水害の被災者においてもまだまだ日常は戻っていません。2011年に釜石の仮設住宅で出会った人は、「あと十年たっても無理だろうね」と言われていて、「その間、自分たちは年を取るし、元に戻るばかりを考えていてはいけないね」と言っていました。そして、仮設住宅のまわりに花壇を設けて、お花で飾っていました。耐え忍ぶ力は、今を生きる力だ、と言うこともできます。
一方、全く希望のないところで耐え忍ぶことができるのだろうか、と考えると、それはなかなか難しいことです。しかし、そう考えながらも、聖書における希望を調べると、次の言葉が出てきました。
「わたしたちは知っているのです。苦難(艱難)は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ書5:3-5)
希望が最初からあって、耐え忍ぶのではなく、耐え忍ぶことから、練達が生まれ、そこから希望が生まれるのだ、というのです。(練達という言葉のイメージは、金属が精錬されて純化するというイメージです。忍耐によって、自分自身の深みで何を求めているのか明らかになるのです。)今はどうなっていくのか、希望さえも見えない中で、耐え忍ぶことは、やがて希望につながるのです。
希望について、パウロは「見えるものに対する希望は希望ではありません。…わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ書8:25)と語ります。
見えているから希望するのではない、見えないからこそ希望するのだ、という姿勢があります。
それは、神の約束を信じるからこそ、神が共にいてくださるからこそできることです。
神が共にいること
本日のマタイによる福音書で、ヨセフはマリアと別れようとします。自分の身に覚えのない子どもをマリアが宿していることが分かったからです。婚約関係にあっても、不貞を働いたということになれば、石打の刑が待っていました。密かに分かれてしまえば、すなわち婚約関係にあったことをなかったことにしてしまえば、マリアは助かるのです。ヨセフにとっては苦悩の決断でした。しかし、夢の中で天使が現れて、生まれる子どもを受け入れなさい。マリアの子は聖霊によって身ごもったのだ、と言うのです。ヨセフはその言葉を信じて、マリアを迎え入れました。自分の中にではない外からの言葉を信頼したのです。
天使はさらに驚くべきことを伝えます。生まれる子どもをイエスと名付けなさい、なぜならその子は、自分の民を罪から救うからだ、と言われたのです。
マタイは、主イエスの誕生を、イザヤ書6章の言葉と繋げています。
主イエスこそ、インマヌエル(神はわれらと共に)の成就だ、と考えたのです。
まず、ヨセフ自身が、神がわたしと共にいてくださった、と感じたことでしょう。
マリアのことを表ざたにできない、ということは、一人で苦悩していたに違いありません。しかし、そこに夢の中とはいえ、天使が現れて、神の言葉を告げたのです。見捨てられていなかった、神が共にいてくださった、という実感をヨセフは持つことができたのです。
ヨセフは、最初から全面的にマリアを信じたのではありません。むしろマリアを信じられなかったこともあったでしょう。しかし、神が共にいてくださることを信じて、はじめてマリアを受け入れることができたのです。ヨセフは、クリスマスの降誕物語の中で決して主役ではないかもしれません。しかし、大いなるわき役としてその務めを果たしているのです。
ヨセフが示していることは、「神が共にいる」ことが、とても大きなことだということです。
そのことを信じることができるなら、わたしたちは大きな力を得るでしょう。恐れを克服することができます。
神が共にいるしるしを信じる~今を生きるために
それでは、どのようにしてそれを知ることができるでしょう。
まずは、主イエスがこの世にこられたことを素直に信じることです。主イエスは歴史の中で貧しい者、虐げられた者と共に生き、結果十字架刑で殺されてしまいました。けれども、その言葉や行動が語り継がれています。復活した姿が認められ、今も私たちの中に生きています。わたしたちには、神の言葉として聖書が与えられています。そこにインマヌエルがあります。
次に、仮にそのことが素直には受け入れられない場合は、自分自身を見つめることです。期せずして、わたしはこのアドヴェントの期間、大学生を相手にメッセージを語る機会が与えられました。今生きていることが、必然的だということ。それは、大いなる者から呼ばれていること(召命 Calling)を確信出来ることであり、そのときが必ず来る、ということ。だから、今感じたり、出会ったりすることを大切にしてほしい、ということを伝えたいと思いました。その準備をしつつ、ちょうど「あしあと」という詩(*1)のように、自分の人生を導く何かに気かされました。それが神が共にいてくださる「しるし」と考えています。その導きは、まっすぐではありませんでした。紆余曲折しながらのことでしたが、だから、たとえ自分が打ち砕かれたとしても大丈夫、という思いを持てます。そこから、主イエスの出来事につなげていくことができるでしょう。
(さらに、いやすべてが無意味だった、と思える人にも実は救いがあります。なぜなら「人生意味なし」という言葉には恐れがないからです。人生意味がない、となれば、それは悲観主義的に聞こえますが、どう生きたとしても変わりはない、という結論に至ります。だとすると、本当の心の求め、深いところから生を求める生き方になっていくように考えられます。)
わたしは、この教会の牧師となっていることも、かけがえのない家族がいることも、松本で出会う人たちのことも、定められていたこと、神のご計画の中にあること、神からみて必然的であると受け止めています。「必然的である」というのは、あきらめることではありません。「すべてのことに時がある」(コヘレトの言葉3章)ことを知ることです。そして、今を生きることにつながります。
主イエスのご降誕は、わたしたちを今を生きることへと導く出来事であり、希望につながる道です。
*1
あしあと
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワーズ