2021年3月7日礼拝説教 受難節第3主日

2021年3月7日礼拝説教 受難節第3主日
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聖 書

旧約聖書  申命記11章26節 (旧約p229)
福 音 書   ルカによる福音書10章38~42節 (新約p127)

説 教 「良い方を選ぶ」   柳谷知之

マルタとマリア

本日のルカによる福音書は、マルタとマリアの物語、出来事として知られております。「必要なことはただ一つ」ということにおいて、あれこれと立ち働いて奉仕することよりも、主イエスの前にじっと座ってみ言葉を聴くことの方が大切だ、というメッセージを受けることが多いと思います。しかし、少し深く読むと、主イエスは「マルタにあなたもここに座ってわたしの話を聞きなさい」とは言われていません。ただ、「マリアが選んだ良い方を取り上げてはならない」と言われているのです。そのところを考えながら本日のみ言葉に聴きたいと思います。

さて、ルカによる福音書ではマルタとマリアは、この場面にしか登場してきません。しかし、ヨハネによる福音書においては、マルタとマリアはラザロの姉として登場してきます。マルタもマリアそしてラザロも主イエスに愛された弟子たちでしたが、ラザロが病のため死んでしまいました。そして墓に葬られたのですが、主イエスが「ラザロよ、墓から出て来なさい」(11章43節)と言われると、ラザロは手足を布で覆われたまま墓から出て来たのでした。

ヨハネによる福音書によれば、このマルタたちが住んでいた村はベタニアという村でした。ベタニアはエルサレムから約3㎞の距離にありました。エルサレムに向かう旅人たちが宿泊する村であり、主イエスもこの村を利用されたと考えられます。そして、主イエスのことを聞いていたマルタとマリア、ラザロの兄弟は、やがて主イエスを信頼するだけでなくメシアとして信じるようになっていたのでした。主イエスは、すでにエルサレムに行く決意をされ、それは十字架に向かう道ですが、エルサレムの目の前にまで来られていたことが分かります。主イエスがエルサレムに入られるのは、過越しの祭りが近づいたときでしたが、エルサレムの祭りが近づくと、大勢の旅人がこのベタニアに訪れたことでしょう。そして、ラビと言われる人々は、その村でもてなしを受けたのでした。

マルタは、通常の食事以上に頑張って主イエスの一行をもてなしました。少なくとも主イエスとその12人の弟子たちがいました。また、主イエスにガリラヤから従ってきた女性の弟子たちもいましたし、その他にも従って来ていた人たちがいました。10章の最初のところでは72人を派遣したとありますので、その72人のすべてもここに一緒にいたとするなら、相当の数でしょう。すくなくとも20人はくだらなかったことでしょう。一人でもてなすことはかなりの労力でしたし、マルタが自分一人だけが立ち働いて、妹のマリアがのんびりと(マルタ視点では)、主イエスのそばにいて話を聞いてるなどということは、許せないことでした。主イエスの足もとという最も良い場所で、お話を聞くというのはなんと贅沢なことでしょうか。

そこで、マルタは主イエスに近づいて「主よ、わたしだけが働いているのを見て、なんとも思いませんか? あなたの足もとにいるマリアにもわたしを手伝うように言ってください」と言ったのです。

このマルタの気持ちはよく分かると思います。

子ども時代に、食事の用意で食器や料理を出す手伝いをしていた時、弟たちは何も手伝わずテレビを見ていました。自分が言っても言うことを聞いてくれないので、母親に弟たちに手伝うように言ってくれ!なんて言ったことを思い出します。

マルタの不満は主イエスにも向かっています。「先生は先生で、こんなにわたしだけが頑張ってるのに、何とも思わないのかしら」と。

ところが、主イエスはマルタからの訴えを聞いて「もっともなことだ。マリアよ、マルタの言う通りにしてください」とは言いませんでした。また「マルタよ、さあ、こっちに座りなさい」とも言われませんでした。そうではなく、「マルタ、マルタ」と優しく呼び掛けられたのです。

主イエスは、マルタをまず受け入れています。「マルタ、マルタ」と二回も名前を呼んでいるのは、主の愛のしるしです。そして、マルタがどんなにか心を乱しているのか、皆をきちんともてなしたいという思いで大変な思いを抱えていることをよくお分かりなのです。

何が問題か

では、いったい何が問題なのでしょうか。

  • マルタは自分の思いで、主イエスを動かそうとしていた。自己中心的。
  • マリアとの直接的な関係を避けていること。
  • マリアが心の求めからしていることをマルタは尊重できなかった。
  • マルタも自分の選んだことに努めることが大切ではないか。

マルタはマルタらしく、マリアはマリアらしく

ヨハネによる福音書11章を見ると、主イエスを迎えに外に出たのはマルタであり、マリアはその時も家で座っていました。マリアはあまり外に出ない内省的なタイプではないか。また、マリアはなんらかの障害を持っていたのではないか、と見る人もいます。マルタも非常に忙しくなければ、マリアに手伝ってもらおうなどとは思わなかったに違いないでしょう。

主イエスが望まれているのは、主イエスとの関係です。み言葉を聴くこともまた奉仕の形です。その奉仕の形は、人によって異なるのです。ですから、何をもって主に喜ばれるのか、また何をもって主に満たされたいと願うのか、が問われています。

対話もまた祈り

そして、マルタがこのように主イエスに文句を言ったことが間違いというのではありません。マルタも忙しさの中で、心の底では、主の言葉を求めていたのです。「マルタ、マルタ」という呼びかけを聞き「あなたは思い煩っている」と指摘されることで、彼女も主に愛されている確信と平静さを取り戻したのではないでしょうか。

どんな愚痴さえも、主イエスは聞いてくださいます。そして、それもまたわたしたちがささげる祈りであり、そのことを通して主は私たちに気づきを与えてくださいます。心のうちにある自己中心的な思いさえも、主に向かうならばそれは祈りです。
祈りというと、マタイによる福音書で密室の祈りを勧める箇所があります(マタイ6:6)。密室は、物理的な場所というわけではなく、一人一人が心の奥底に持つスペースです。ですから、物理的には電車に乗っているときも、家事をしているときでも、その場において神に向き合い祈ることができるのです。そのような祈りの習慣は大切です。

わたしたちも自分の意思で思い煩っているわけではありません。しかし、どうしようもないこともあります。その都度、主イエスの自分自身に対する呼びかけを聞きたいものです。そして、その主の呼びかけによって、思い煩いから解放され、自分自身が選んだ良いことに尽くす力も与えられるのです。

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