2022年1月16日 降誕節第4主日・顕現後第2主日

聖 書
 旧約聖書 イザヤ書 50 章 4 節 新約聖書
ルカによる福音書 15 章 1 ~ 10 節
説 教 「あなたを探し求める神」
◆ 新しい年が始まりました。希望を持っていきたいと願いますが、 新型コロナウィルスの第 6 波がはじまりました。第 5 波よりも大きい波が来ている感じがします。 新年早々厳しい状況が示されました。また、教会の状況を考えます。 どこの教会においても会員数、礼拝出席数、年齢構成などから見ると、 大変厳しい状況にあると思われます。松本教会においても、 20 代、 30 代の若い世代が数えるほどしかいません。会員数約 90 名のうち半数は 80 歳を越えています。また、教会学校もある家族が転勤でいなくなると、とたんに子どもたちの出席が 0 という日が続くようになりました。 先日、ある方 を訪ねると、自分の子どもや孫たちは教会に全然目が向かない、幼稚園もキリスト教主義だったのに芽が出ていない、 教会のこれからはどうなるのだろう と嘆いていました。 そのような状況にある 中で、希望のある話ができるだろうか、と躊躇しつつ、 だからこそ聖書に 聴くしかない、と思わせられています。 歴史的には、人間の限界、危機的状況にあって、神の業が働くチャンスだと考えてもよいのです。なぜなら、最初に主イエスの十字架の出来事があり、復活の命が示されたからです。
◆ そのような思いを持ちつつ、 本日与えられた聖書 を見ていきたいと思います。
まず、イザヤ書の 50 章 の 預言者イザヤ の言葉を聞きます。 この場合の イザヤ書 は、 イスラエルの民がバビロン捕囚にあったあとエルサレムへの帰還が許された後の時代の書です。もう一度国を復興する、エルサレム神殿を復活させたいという思いが半ば萎えてしまうような時代に神の言葉を携える預言者に対して励ましが与えられています。この 50 章の最後には、自分の力に頼む人々が 決して成功しないということも語られています。ここでも危機的な状況においてこそ、私たちが頼みとする言葉、岩とする力が示されています。
◆では、どのように神の言葉を頼みとすればよいのでしょう。
そのヒントが、本日の福音書にあると考えています。
まず最初に 見失った羊のたとえです。「迷子の羊のたとえ」として知られていますが、正確には、それはマタイによる福音書のほうで、ルカによる福音書は、羊飼いから見て失われた羊、ということになります。 100 匹の羊を飼う羊飼いが、一匹を見失った時に、他の 99 匹をおいて、その一匹を探し出すだろう。見つけたら、皆で喜び祝うだろう、と主イエスは言われました。そして、同じように、神に立ち帰る者がいれば、天に大きな喜びがある、と言われるのです。あるミッション系の学校の聖書の授業で、教師は生徒にこう問いかけ ました 。
「どんな羊ならば、 99 匹を残しても探し出すだろうか?」
するとある生徒が「黄金の羊なら探し出す」と言った そうです 。
99 匹より 1 匹のほうが、価値があるならば、人間は探し出そうとする、ということ です 。
見失った 1 匹の羊は、それほどに価値のある羊であること が示されています 。
しかし、神様から見ると、失った1 匹が他の99匹よりも優れていたり、特別に必要な羊であった、というのではありません。どの羊でも、その 1 匹が大切であり、かけがえのない羊です。その1匹が失われれば、それを何としてでも探そうとするのである。それが 真 の羊飼いであり、イエス様や神様はそういうお方であることが示されています。
また、残りの 99 匹を野原に残していく場合、羊飼いは、その残りの99 匹がバラバラに動くことを想定はしていません。それだけ残りの 99 匹に対する信頼もあるのです。
このたとえは、ファリサイ派の人々や律法学者たちが、罪人を迎えて食事をしている主イエス
を批判する中で語られてい ます 。すなわち、見失った羊は、「罪人」とされた人々、徴税人やいわゆる「汚れた」人々である、と考えら ます。その意味から見ると、「見失った羊」は、教会からも締め出されている人、この場にも居場所がないと 感じている人ではないでしょうか。また、社会の中で見るならば、この社会に居場所のないもの だと考えられます 。神さまの愛は、 たった一人を探し出 そうとするところにあります。 ただ一人が大切だからこそ、他の多数の誰もその愛から漏れるものではないことが示されているのです。
見失われる1匹は、誰かと重ねられるでしょうか。また、自分自身と重ねる思いを持つ方もいらっしゃることでしょう。個性的とか「変わっているね」という言葉と無縁の人はどれぐらいいるの でしょう。あるいは、他の人たちと なじめない、という思いを持ったことが一度もない、という人はいるでしょうか 。
そう考えると、「私」もまた神から見れば「見失われた者」の一人であった、と気づかされます 。しかし、それは神の選びがあるということでもあります。 パウロ は語っています。 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知 恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」 (Ⅰコリント1:26)
他の人から外れている、時には空気が読めないと思われることもある、そんな 「私」を 、そんな「あなた」を 神が見出され たのです 。神が、私の真の羊飼いとして共にいてくださる のです。教会は、本来 その安堵感と喜びがあるところです。詩編の次の言葉も、私たちの選びと関連します。
「父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」 (詩編 27:10 )
「死の陰の谷を行くときも わたしは 災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」 ( 詩編 23:4)
その喜びに満たされて、私たちは、今なお 失われた人々に目を向けることができるのではない
でしょうか 。
◆ 同じようなテーマで、 銀貨を無くした女性のたとえが続きます。
ここでは、ドラクメ銀貨 10 枚持っている女性が、一枚を無くしてしまい、なんとしてでも失った銀貨を探し出すだろう、と語られます。さらに、見つかったら近所の仲間たちを呼んで、一緒に喜んでください、 とあります 。ドラクメ銀貨は古代ギリシアの銀貨で、その価値は、デナリオンと一緒です。 1 デナリオンは、労働者の一日分の賃金に相当しますので、現代の感覚では、八千円から一万円ぐらいの価値となるでしょう。一万円札を無くした、となれば、私たちも、なんとか見つけようと します 。
ただし、失っていた一万円が見つかったので、一緒に喜んでください、と、仲間を呼 ぶでしょうか。この女性 が 、それだけ必死になって銀貨を探していた ということです 。家の中にともし火をつけて、家を掃いて、見つけるまで念入りに探 したのです。ですから、 見つかったらほっとして、その喜びを仲間の女性たちと一緒に喜びたいのです。そのように、一緒に喜んでくれる仲間がいるということでもあります。
これも、一人の罪人が悔い改めるならば、天使たちの間に大きな喜びがある、ということのたとえとして話されています。失ったものが見つかる、無くしたものが見つかるというのは大変うれしいものです。わたしも最近いろいろと 探し物をする日々です 。 探す時間が大きくなってしまいました。無くしものを探す、という経験は誰にでもあるでしょう。見つからないと落ち着かないものですし、見つかると本当にほっとします。また、誰かが何かを探している、というのも気になりますし、それが見つかったならば、ほっとします。礼拝の後 で、時々お電話があって、礼拝堂に○○は置いてませんでしたか?という問い合わせもあります。礼拝堂で見つかった場合はそれで安心しますが、見つからないとやはり気になるものです。
そして、主イエスにとって、人が悔い改めるということは、本来 あるべきものが、あるべきところに収まる、というイメージなのです。その喜びの大きさは、私自身が失ったものを見つけるということ以上の喜び です。そして、失ったものが見つかる、というときに、注意深く自分の行動を振り返ったりしますが、それは思いがけない時に見つかることもよくあります。自分の努力をこえたところで見つかる、と恵みが現 されています。そして、恵みは分かち合ってこそ大きな喜びへと変わるのです。
◆ ここまでは、わたしたちが見つける側での見方ですが、そもそもこの譬えは、その前の見失
た羊を見つける羊飼いの話 と、次の放蕩息子の譬え話と繋がっています。ということは、ここ
銀貨を探す女性は、神 様 やイエス 様 と重ねられ 、 無くした銀貨は、わたしたちです。
羊や放蕩息子は、生きているものであり、自立的に動くものです。しかし、銀貨は物体であり
それ自体が意思をもって動くということはありません。探している女性を神だとするならば、神はわたしたちが何をしていようと構わずに、探してくださるかたです。銀貨 が無くなったからと いって 、無くなったのを銀貨のせいにすることはできません。全責任をもって、わたしたちを探し出してくださる 神の姿が描かれています 。 今ここに居らっしゃる方は、神によって発見された方だといえるでしょう し、イエス様を知らない人は、見失われた状態で、神に発見されるのを待っている状態です。繰り返しになりますが、神によって発見された、というのは自分の意思をこえたものであり、恵み以外のなにものでもないのです。
◆ 人間が神と出会う時に、なにかきっかけということがあります。私自身は牧師の家庭に育っていて、一般的な日本の家庭よりも聖書が身近にあった、ということが大きなこととしてあります。しかし、考えてみると、それは自分の意思で はありません。思春期には、普通ではない家庭に生まれたことが嫌だったこともあります。しかし、今考えればそれは恵み だと思います 。自分は牧師の家に育ったから聖書の言葉を当たり前だと思ってきたのでは ありませんでした 。 聖書がぐっと近くなったのは 、大学の時に通っていた聖書研究会でした。 宮田光雄さんという東北大学の法学部の先生が主催している会でした。 その聖書研究会は先輩に誘われて通ったのですが、あまり面白いとは思わずに、次の年になったらやめよう、とまで考えていたのでした。しかし、ある会のときに、自分のこととして考えられる 聖書の言葉に出会ったのです。
それは、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という言葉でした。そこで、わたしははじめて自分を愛することの大切さを感じ、また自分を愛することというのはどういうことだろうか、と考え始めることになりました。最初は、 気乗りしなかったところで、不思議にもみ言葉に出会ったのです。そんな経験は皆さんにもあるのではないでしょうか。自分の意思とは違うところで出会いが用意されているのです。
神に選ばれるということは、 本質的に 自分の意思とは無関係な ことです 。 自分の意思と思われる応答さえも 、導かれたとしか言いようのないものがあります。 そして、そのような選びを体験したものは、聖書 で選ばれている 預言者 や 主イエスの弟子 たちと 自分を重ねていくことができます。神に選ばれた以上、自分の意思でどうこうできない何かを感じ取り、そこに委ねていくしかないもの、お任せするしかないものを感じさせられるのです。
そして、神に発見されている、選ばれているということは、そのことで私自身を誇るものではありません。すべてを知っていてくださる神がいてくださる、ということで、いろいろな悩みはありますが、決して不安に支配されるわ けではなく、どこかで覚悟があり、平安へと導かれるのです。
客観的にみれば、いろいろな偶然が重なって、牧師に なりました 。それはとても不思議 で あり、神の導きを感じさせられます。だからこそ、これからのことにおいても神の導きと守りの中にあると信じます 。
◆これらの たとえのように、神がわたしたちを発見して喜ばれている、と同時に、わたしたちもこのような神に出会えて嬉しいのです。 自分が神様に応答したからだ、と思うならば、どこかで自分の力に頼っているのではないか、と思えます。しかし、 自分自身の存在の根底を、自分の意思を超えた大いなる方、神が支えてくださっている の です。主イエスが、なんとしても見つけ出し探してくださった、自分の命を捨てて私たちを神のもとに連れてきてくださった、という恵みがいつもわたしたちを覆っています。 自分の力に絶望するものほど 、何もできないな、と思うほど、 その恵み の 大きさや 喜びを感じ ます 。 ですから、 喜び をもって生きることができます。生かされている今はかけがえのないときであり、 恵みの時です。その 恵みを分かち合い、「あなた」を探している神がいる、と伝えていき たいものです。
◆新型コロナのまん延が不安を呼び起こし、私たちを小さくしていきます。 他の人との関わりにおいて自由な活動が制限されてしまいます。
昨年 12 月に若松英輔という評論家と 山本芳久 という哲学者 が対談している本 を読みました。『危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて 』 と いうタイトルです 。すべてにおいて 同意できるわけではないのですが、全体的には、危機こそ、教会が世のための教会であることが大切だ、と語られています。教会が信徒のためだけのものではなく、この世界に対して開かれているべきだ、ということです。 どんな教会でも、他者のために開かれてこそ教会としての命がある、ということでしょう。
自分自身が傷ついたり、 だめだなと思う時に、 私自身がとても 励まされる言葉があります。
イザヤ書 58 章にある言葉です。
「 悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折る
こと。 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/ さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。 」
傷つけば誰でも関わりを少なくしようとします。自分中心になってしまいます。 自己責任論が
まん延します。 しかし、そういうときこそ、他者に目を向けなさい、そうすればあなたの傷はいやされるのです。 イエス様もご自分の傷をもってわたしたちを贖ってくださいました。
3.11 の東日本大震災があった時に、わたしの弟 で新生釜石教会の 柳谷雄介牧師が 「 復活したキリストは傷跡もなにもなく復活したのではなく、傷跡があって復活した」というところに注目し、傷跡や弱さは恥ではなく、他者と 共に生きることにつながる、と言っていました。
失った銀貨のように、私たちは自分で何かをすることができません。しかし、弱さにこそ神の
力が現れ、弱いからこそ神に希望を置くことができます。苦しい時の神頼みしかできない私たちだからこそ 、神が共にいてくださることを証できるのです。高齢化や 教勢の低下 といわれる中にあって 、神の御言葉 のみを頼みとするしか ありません。しかし 、 そこでこそ 神の御手のうちに自分を発見 されます。その 喜びが 生きる 力 、 活動の力 となるのです。

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