聖 書
旧約聖書 イザヤ書55章1~3節(旧約1152頁)
新約聖書 マタイによる福音書4章1~11節 (新約4頁)
説 教 「人を生かす言葉」 柳谷知之 牧師
◆本日の聖書箇所について(教会暦との関わりで)
本日の聖書箇所は、受難節に入る時によく読まれる箇所の一つです。受難節(レント)は、主イエスのご復活を祝うイースターの前の悔い改めの期間です。日曜日を除く40日間で、レントのはじまりは水曜日になります。その水曜日は、わたしたちが死ぬべき存在であること、神の前に悔い改めることを覚えて、灰の水曜日と呼ばれています。そして、主イエスが荒れ野で40日40夜試みるもの(悪魔)の誘惑に打ち勝ったことになぞらえ、わたしたちも誘惑に打ち勝って主に従う道筋を整えていこうとするのです。もっとも、それは自分の力で誘惑に打ち勝つのではなく、主の助けによってできることであります。また、それは誘惑に負けたらだめだ、というのではなく、誘惑に負けたとしても、そのような弱さをもった自分自身であることを発見できれば、それを良しとしていくのです。別に開き直るわけではありません。そうではなく、弱さを抱えた存在であることを自覚し、だからこそ主イエスの救いが必要であり、主イエスの力に委ねていくことを学ぶのです。そこから、自分自身の弱さや限界を感じるときほど、主イエスは私たちのそばにいてくださることを、確かにしていくことができるでしょう。
◆本日の聖書箇所について(聖書の文脈において)
また、この箇所の文脈から考えています。
主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、また聖霊(神からの力)を受けました。それは、主イエスが、神の愛する子であることを悟り、これから向かうべき道(十字架への道)に対する力を受けたことを意味します。そして、その聖霊は、主イエスを荒れ野に導くのです。
荒れ野は、人の住んでいないさびしいところ、誰も助けの来ないところです。人間の思いを捨てる場であります。しかし、そこは、イスラエルの民が荒れ野でさまよいながらも、神と出会ったことを考えると、神によって養われる場でもあるのです。では、現代の荒れ野は、どういった場でしょうか。人々が孤立している場であり、自分ひとりでしか生きていけないような状況といえます。自己責任が問われ、助けがないように見える場です。この荒れ野では誘惑がつきものです。イスラエルの民も、何度も主を試し、また主が共にいてくださることを忘れてしまうのでした。
主イエスは、この荒れ野で断食をしました。断食というのは、多くの宗教でも取り入れられている修行のように思われますが、主イエスの断食は、自分自身を見つめ、その限界を知ることでありました。40日40夜の断食の後に、空腹を感じられるわけですが、それは、イエスが肉体を伴った存在として生きていることを現します。すなわち、人間の生理的な欲求を主は感じられる方なのです。それは、人間として当然の反応ですが、そこに人間的弱さがあると考えられます。試みるもの、すなわち悪魔は、その人間の弱さに、もっともらしく誘惑してくるのです。
◆誘惑に打ち勝つ力
さて、主イエスは、3つの誘惑を受けました。生存に関わる誘惑、神を試すという誘惑、そして、この世を支配したい、権力や力を得たい、という誘惑です。
石をパンに変える、という誘惑は、食べ物でないものを食べ物にすることですが、それは実質のないものを実質があるかのように見せることと言えるでしょう。もしかすると現代社会がその誘惑の中にあるかもしれません。本来人の体を支え生かすはずの食べ物が必要なのに、不自然な食べ物が生み出されていること、あるいはお金というシステムや、マネーゲームということもまたそれに似たようなことかもしれません。しかし、主は言われます。
「人はパンだけで生きるものではない」と。パンはもちろん必要なのです。しかし、ただ物理的なこと、生理的なことが満たされていれば人間が生きたことになるのか、というとそうではないのです。
「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えられたのです。主イエスが語られたこの言葉は、旧約聖書の申命記8章にある言葉です。神は、イスラエルの民を荒れ野で40年間過ごさせましたが、それは「人がパンだけで生きるのではなく、神の言葉で生きることを知らせるためだった」とあるのです。神は時々わたしたちを荒れ野という試練に遭わせられるのです。
本日は他の誘惑について詳しくはお話しませんが、神を試そうとする誘惑は、自分が神のようになろうとする誘惑である、とも言えます。自分の思うとおりに動く神を期待するからです。そして、権力を得ようとするとき、悪魔に跪いてしまえという誘惑もあるのです。神以外のものを神としてしまう、絶対的にしてしまう、という誘惑です。
◆人を生かす言葉
そして、悪魔の誘惑は、時として聖書を用いることもあるのです。
「飛び降りても、あなたを天使が支える」というのは詩編91編の言葉です。そのような誘惑に打ち勝つ力もまた神の言葉によるのです。主は、3つの誘惑を、聖書の言葉によって退けました。これらのことで示されることは、主イエスご自身が、聖書の言葉によって力を得、また生かされていたということです。
振り返って、わたしたちは自分自身を生かしている言葉に出会っているでしょうか。
以前、ある牧師が牧師になったきっかけを話されました。その牧師は、神学校に行く前に、ミッション系の大学で福祉を学んでいたとのことでした。そこで目の見えないクリスチャンの教師の話を礼拝で聞きました。その先生は大学を出たあとアメリカに留学しているときに失明しました。失明しては本が読めない、もうだめだ、自分の人生は終わった、と思いました。そんな自分の絶望的な気持ちを大学の恩師に手紙で伝えたところ、何人かの先生が寄書きをして励ましてくれたのでした。その寄書きの色紙に「にもかかわらず生きるキリストの福音を知って欲しいです」と書かれていたということでした。失明したその先生は、「にもかかわらず生きるキリストって何?」と思ってはじめてキリスト教に関心を持ち、教会に行き、キリストの十字架を知り、やがて洗礼を受けました。さらに、目では本を読めないので、点字を学び、時には朗読者のボランティアによって本を聞き、勉学を続けたということでした。色紙の言葉は聖書の言葉そのものではありませんが、「にもかかわらず生きる」という逆説的な福音、主イエスが示す十字架と復活を現していると思います。どんな状況にあっても生きる意味があることを知って欲しい、という願いによって書かれた言葉です。さらにそうして変えられた人の生き方が、また次に出会う人の生きかたに影響していくのです。この目の見えない先生の言葉を通して、その牧師は牧師の道を志したのです。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』ということは本当のことです。
そして、御言葉と出会う、ということは、そのことを通して、主イエスと出会う、神と出会う、ということです。主イエスは、そして神は、この聖書の言葉を通して、わたしたちと出会ってくださり、本当の命を与えてくださる方なのです。